番組小学校番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)は、明治維新後の1869年(明治2年)、京都の町衆たちの手によって、当時の住民自治組織であった「番組(町組)」を単位として京都(当時の上京と下京)に創設された、64の小学校を指す[1]。 これらの小学校は、1872年(明治5年)の、国家による学校制度(学制)の創設に先立つ、日本で最初の学区制小学校であった。 概要近世、京都には「町組」という住民自治の組織があったが、明治維新の前後に町組は「上京(下京)○○番組」という通し番号のついた地域的なまとまりを持つ組織に再編され、「番組」と呼ばれるようになった。 1869年(明治2年)には、27程度の町を1番組として、上京に33の番組、下京に32の番組、合計65(同年、下京で1番組が分離し、番組の数は66となった。)に再編されるとともに、1つの番組に対して自治会所機能を併せ持つ小学校が1つ作られることになり、同年中に64校の小学校が開校された。(番組の数が66であるのに対して、小学校数が64校なのは、番組2つで1つの小学校を設置したところが2箇所あったため。) 京都府は、各番組に対して、新築校舎の模範設計を示している。校舎は2階建てであり、1階中央の玄関を入ると、左右に大小の差のある男女の筆道場が配置されている。2階には広間の講堂、出勤場(職員室)、算術教室が置かれた。建設費は、各番組に対して、京都府から800円が貸与され、半額が無利子の10年年賦で返済の予定とされたが、実態は番組ごとに異なっていた。また、各番組の全戸別に対して、半年に1分の軒金が課せられ、有志による寄付と合わせて、恒久的な運営費に充当するものとされた。番組によっては、「上(下)京○○番会社」を設立して、資金運用に当てたところもあった。 1870年(明治3年)正月、各番組小学校において「稽古はじめ」式が催され、授業が開始された。京都府が作成した式次第によれば、孔子と菅原道真の2学神像が祀られたという。京都市学校歴史博物館には、下京七番組小学校の像が展示されている。授業科目は、「句読」「暗誦」「習字」「算術」の4科であった。 この番組は1872年(明治5年)には「区」として再編され、さらに1879年(明治12年)郡区町村編制法により上京区・下京区が置かれると、「組」と改められた。 市制によって誕生した京都市が、1892年(明治25年)に学区制度を確立。番組をルーツとする学区は、1893年(明治26年)に上京区28学区、下京区32学区となり、この形は1941年(昭和16年)の国民学校令により学区による小学校の運営が廃止されるまで存続した。 その後、戦後の学制改革によりり、もとの小学校を新制中学の校舎に利用するなどによって小学校の通学区の変化があったが、戦前の学区制度廃止前の学区は「元学区」という住民自治の単位として現在も生き残っている。 多くが少子化により統廃合されたが、建物は公共施設やホテルなどに利用されている[1]。学校跡地の民間利用は原則、京都市からの敷地貸付(建物は譲渡)により実施されている[2]。 番組小学校と元学区、現在の校名等の対応番組小学校の学校名は、当初「上京第○○番組小学校」などと番組名を用いて名付けられたが、その後地域の歴史に基づくものや、中国の古典に基づくものに改称され、その名称は元学区の名称に継承されている。 1869年(明治2年)の番組名と元学区の名称および各番組小学校の学制改革後の校名の対応は以下のとおり。複数の番組が1つの学区となっているのは、当初2つの番組で1つの小学校を設立したり、後に学校の統廃合を行ったりしたところがあるためである[3]。なお、番組小学校が設置された区域の元学区は、「学区」が置かれた1892年(明治25年)[4]にはほぼ現在の範囲になっており、名称は1929年(昭和4年)に学校名に変更された[5]。 番組小学校と元学区、現在の校名等の対応表
参考文献
脚注
関連項目外部リンク
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