諸井貫一諸井 貫一(もろい かんいち、1896年1月11日 - 1968年5月21日)は、東京府(現東京都)生まれの実業家。 セメント製造事業の開拓を手掛けた諸井恒平(渋沢栄一と親類関係に当たる)の長男で、東諸井家12代当主。秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、経済団体連合会(経団連)の創設など日本の近代化に深く貢献した。従三位勲一等。 略歴1908年(明治41年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1913年(大正2年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1921年(大正10年)に東京帝国大学大学院経済学研究科を修了。その後、同大学の工学部と経済学部で工業経済論の講師を務める。 1925年(大正14年)に、父の要望により、父が経営していた秩父セメント会社に入社し、支配人、常務取締役を歴任する。1946年(昭和21年)4月30日に経済同友会が発足した際には代表幹事に就任[1]。1948年(昭和23年)に姉・三保の夫で2代社長であった大友幸助が交通事故により急逝したことから、秩父セメント会社の3代社長に就任した。徹底した合理主義の下で運営するかたわら、日本経営者団体連盟(日経連)、経団連の創設にも参加、尽力し、日経連では初代会長を務めた。この間、父の跡を継ぎ、14年間ほど埼玉県本庄市の仲町郵便局局長を務めたが、会社重役と国家公務員を兼ねて仲町郵便局をこなすことは難しく、自ら辞任し、3代続いた「郵便諸井」はここに終わる。以後、日本経済界のリーダーとして常に経済発展のために努力し、産業教育の振興に尽くし、73歳で没した。墓所は埼玉県の安養院。 弟は2人おり、諸井桃二(1938年没)は官吏(商工省統制課長)を務め、従三位勲六等を授与された。末弟の諸井三郎は作曲家として高名である。また、義理の従兄に柳田誠二郎(日本航空社長を務めた。一時期、諸井姓だった)がいる。 親族諸井家は本庄城築城前から利根川沿岸の花の木に土着していた「花の木18軒の古百姓」と呼ばれる18家のひとつ。
系図
著書
脚注
関連項目
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