尾高惇忠 (実業家)
尾高 惇忠(おだか あつただ[2]、文政13年7月27日〈1830年9月13日〉 - 明治34年〈1901年〉1月2日)は、日本の豪農、志士、実業家。富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。諱ははじめ惇孝(あつたか)、後に惇忠と改めた[3]。惇忠の読みは「じゅんちゅう」とも[4][5]。通称は新五郎、号は藍香(らんこう)。 人物・来歴岡部藩領の武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれた[2]。惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた[6]。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一である。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。また、のちに惇忠の妹・千代は栄一の最初の妻となり、惇忠と千代の弟・平九郎は栄一の幕臣時代にその見立て養子となった。剣術については、おじの渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、弟の尾高長七郎、従弟の渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)らとともに稽古に励んだ[7]。 若い頃は水戸学に大きな影響を受け強烈な尊皇攘夷思想[8]を持っており、文久3年(1863年)に栄一らと共に、高崎城を襲撃して武器を奪い(高崎城乗っ取りの謀議)、横浜外人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、長七郎の説得により中止した。 のちに栄一や成一郎は徳川慶喜に仕え、一橋家家臣から将軍直臣(旗本)となり、その縁で惇忠にも慶喜から声がかかるが、慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争の勃発により、目通りは実現しなかった。 戊辰戦争の際、惇忠は初め、渋沢成一郎を頭取に旗揚げされた彰義隊に、平九郎らと共に参加する。その後、内部対立から成一郎、平九郎らと共に脱退し、彼らと振武隊を結成して武蔵国高麗郡飯能(現・埼玉県飯能市)の能仁寺に陣営を築き、同年5月23日に官軍と交戦するが、敗退する(飯能戦争)。この戦いで平九郎は自決し、惇忠と成一郎は上州方面に落ち延びて伊香保(現・群馬県渋川市伊香保町)、草津(現・群馬県草津町)に潜伏した。次いで、惇忠の長妹みちが大川平兵衛の子の修三に嫁いでいる縁を頼り、前橋の大川家に身を寄せた[9]。その後、成一郎は江戸に向かい榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流して箱館まで転戦したが、惇忠は機会を見計らって密かに郷里の下手計村へ帰還した[10][11]。 明治維新後、大蔵省官僚となった栄一の縁で、官営富岡製糸場の経営に尽力した。長女の勇(ゆう)は志願して、その最初の工女になった。明治9年(1876年)末に製糸場を離れ、翌明治10年(1877年)から第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人などを務めた[2]。 その他、秋蚕の飼育法の研究や製藍法の改良、それらの普及にも尽力した。著書に『蚕桑長策』(1889年)、『藍作指要』(1890年)がある[2]。 1901年1月2日、東京市深川区福住町の渋沢栄一別邸にて死去[12]。享年72(満70歳没)。長男の勝五郎保志は早世し、次男の次郎は親族の尾高幸五郎の養子になっていたため[13]、末娘の夫の定四郎が婿養子として家督を継いだ[14][15][16]。 家族・子孫・親族
長女の勇(ゆう)は上述の通り、富岡製糸場の最初の工女である。次男で勇の弟の尾高次郎は漢学者・銀行家で、渋沢栄一の庶出子である文子を妻とした。文子の同母妹の夫である大川平三郎は、惇忠の長妹みちの子で、神道無念流の剣豪大川平兵衛の孫である。 渋沢栄一と共通の孫(次郎と文子の子)には、郷土教育家の尾高豊作、法哲学者の尾高朝雄、東洋美術研究者の尾高鮮之助、社会学者の尾高邦雄、作曲家・指揮者の尾高尚忠がいる。曾孫には、作曲家で同名の尾高惇忠とその弟で指揮者の尾高忠明、また経済学者の尾髙煌之助、東京女学館短期大学学長を務めた久留都茂子、会計学者の諸井勝之助(渋沢家の縁で惇忠や栄一の従甥にあたる諸井貫一の婿養子)らがいる。 三妹の千代は渋沢栄一の最初の妻となった。その娘・歌子と穂積陳重の長女は栄一の甥(両親とも惇忠のいとこ)の渋沢元治に嫁いだ。同じく三女は市河三喜に嫁ぎ、その一人娘は野上豊一郎・野上弥生子の三男と結婚、娘に長谷川三千子がいる。同じく四男の穂積真六郎の妻と、尾高朝雄の妻は、それぞれ芳賀矢一の次女と四女である。 系図
→「諸井恒平 § 系図」、および「穂積家 (伊予国) § 系図」も参照
登場作品テレビドラマ 映画
脚注
参考文献
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