穂積歌子
穂積 歌子(ほづみ うたこ、文久3年8月24日(1863年10月6日) - 昭和7年(1932年)1月31日)は、日本の歌人。夫は法学者の男爵穂積陳重。父は「日本経済の父」子爵・渋沢栄一。 概略武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農渋沢市郎右衛門の嫡男だった[注釈 2]栄一と最初の妻・千代の長女として生まれる。明治15年(1882年)、旧宇和島藩伊達家家令を務めていた西園寺公成のとりなしで、同藩士族の穂積陳重に嫁ぎ[2]、長男・穂積重遠(結婚翌年に誕生)を始めとする4男3女を産み育て(1人夭折)「良妻賢母の鑑」といわれた[3]。婦人会活動も盛んで、大日本赤十字社や愛国婦人会の会員だったほか、慈恵委員慈恵会では幹事、出征軍人家族慰問婦人会では理事を務めた[4]。1926年、夫の穂積陳重(享年72)と死別する。 昭和7年(1932年)1月31日、肺炎を患い死去。享年70(満68歳没)。父の栄一の死から僅か2カ月後の事であった。また、同年の10月には同母弟の渋沢篤二も死去する。歌人として知られ、著作に『穂積歌子日記』『ははその落葉』『三日の大和路』がある。 刊行
脚注注釈出典
参考文献
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