藤川孝幸
藤川 孝幸(ふじかわ たかゆき、1962年10月10日 - 2018年11月15日[1])は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手(GK)、サッカー指導者、経営者。 来歴読売ユースを経て、1981年から読売クラブ、1992年からヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でプレーした。PK戦の強さで一躍名を広めた。1995年に引退[2]。現役晩節は実質的にGKコーチを兼任していたが、Jリーグでは現役選手のコーチ・監督兼任登録が認められていないため、登録上は選手選任だった。 引退後はV川崎で5年間、ヴィッセル神戸で4年間、ベガルタ仙台で1年間GKコーチを歴任し、2006年は甲南大学サッカー部監督として関西大学2部秋季リーグ初優勝。2007年からはセレッソ大阪のコーチを務めたが、成績不振のためシーズン途中に都並敏史監督、西村昭宏ゼネラルマネージャーとともに解任された。2007年5月から静岡FCの監督を務め東海リーグで3年ぶりに優勝。2008年から2009年までアビスパ福岡のGKコーチを務めた。 都並敏史とは読売ユース以来の友人であり、2005年に都並が監督を務めたベガルタ仙台にGKコーチとしてスタッフ入りし、2007年にも都並が監督を務めたセレッソ大阪にコーチとしてスタッフ入りした。また、ニッポン放送のラジオ番組『都並クン・藤川クンのイエローカードなんて怖くない』で共にパーソナリティを担当、「オールナイトニッポンのパーソナリティー」にも出演。 2010年5月から国際武道大学の監督に就任。2011年千葉県春季大学リーグ・千葉県大学選手権で優勝[3]。 2015年1月からソーシャルビジネス・総合スポーツサービス企業のリーフラス株式会社へ入社。アライアンス統括プロデューサー・上席セカンドキャリア室長をへて、取締役事業推進室長から常務取締役に就任[4][5]。2017年からはリーフラスが運営権を取得した北海道十勝スカイアースの代表に就任した[6]。 2017年12月に東京都内の病院でステージ4以上の末期の胃がんであると診断を受け、抗がん剤治療を行っていると2018年4月に北海道十勝スカイアースの新体制発表会見で発表した[7]。その後、古巣のファン・サポーターがスタジアムで激励の横断幕を掲げた際には、自身のツイッターに「必ず癌を完治させまして、完全復活して参ります!必ず奇跡を起こします!」「皆様の思いを必ず結果と形にしまして、皆様に御挨拶に伺いたいと思います!」などとつづり、同年5月26日のJ2リーグ第16節・東京V―愛媛戦(味スタ)の試合前に行われた激励マッチにも姿を見せたが、同年11月15日、死去[8]。56歳没。 人物GKコーチ時代は、冬の寒いときにも欠かさずタンクトップ・短パンをはいてコーチをしていた熱血漢。本人曰く「魂が入るので寒くない」。 その脚から繰り出されるキックは強烈で、試合前や練習を見学しているサポーターからはどよめきが起こる。これは、現役引退(1995年)後、GKコーチとしての道を歩み始めてからキックの特訓をした賜物であり、スペイン1部リーグのFCバルセロナのGK練習を実際に見て、強く正確なシュートの必要性を感じ、「とにかく時間があれば練習した」と語っている。 所属するリーフラス株式会社が、『日経スペシャル カンブリア宮殿』に出演した際に、元プロスポーツ選手のスカウト部門を担当していると紹介された[9]。 家族妻と息子が4人いる。 本人の死後、三男の藤川誠人(桐蔭学園、慶応大学サッカー部出身)は、プロサッカー選手のマネジメント会社を設立[10]。日本代表・板倉滉選手らの業務を担った。さらに2023年、未亡人となっていた妻が元横綱・貴乃花と再婚[11]。この縁から、息子の誠人が貴乃花のマネジメント業務も請け負っている[12]。 所属クラブ個人成績
その他の公式戦
指導歴
脚注
関連項目外部リンク
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