能見台
横浜市南部の京急本線能見台駅と金沢文庫駅の間の内陸側に位置し、広大なベッドタウンとなっているほか一部は緑地として保全されている。地名は、開発地内に保存されている能見堂(横浜市地域史跡登録地[6])に由来する[7]。本項では、隣接する能見台森(のうけんだいもり)についてもあわせて述べる。 住居表示は能見台と能見台森は未実施区域である。 地理能見台京急本線西側の住宅街で、一-三丁目と四・五丁目の間を東西に、堀割構造の横浜横須賀道路金沢支線が通る。能見台六丁目は能見台森を挟んで飛び地となっている。 能見台森旧金沢道に沿った緑地として保全され、金沢文庫駅より円海山方面に至るハイキングコースとなっている。居住人口はゼロである。 面積面積は以下の通りである[2]。
地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、能見台2丁目17番9の地点で15万9000円/m2、能見台3丁目30番4の地点で20万円/m2となっている[8]。 歴史東海道程ヶ谷宿から鎌倉へ至る金沢道がこの地を通る。仁和年間に画家の巨勢金岡がこの地を訪れた際に、松の根元から写生をしようとすると、あまりに見事な景色と潮の干満による変化にのけ反ったことから「のっけ堂」と呼ばれ、思わず筆を投げ捨てたことから「筆捨て松」と呼ばれるようになった言い伝えが残る。それから70年余りの後、藤原道長が設けた草庵が能見堂となる。寛文年間には、久世広之が増上寺からこの地へ地蔵院を移し、これを擲筆山地蔵院と称した[7]。元禄時代には心越禅師が、ここからの風景が瀟湘八景に似ているとして武州能見堂八景の詩を詠み、これが金沢八景の由来となった[9]。明治時代には久良岐郡日下村および六浦荘村に属していたが、横浜市に編入して釜利谷町、上中里町、氷取沢町の一部となった。1970年代からは計画人口18,500人[10]の大規模開発が行われ、1981年には能見台1丁目が新設された。 沿革
町名の変遷
世帯数と人口2023年(令和5年)4月30日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。なお、能見台森の人口は0人であるため、詳細は省略とする[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2021年8月時点)[17]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[18]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通京急本線能見台駅および金沢文庫駅が最寄りとなり、両駅より住宅地を結ぶ京浜急行バスも運行されている。能見台駅は1944年に谷津坂駅として開業したが、1982年に現駅名に改称している。能見台東には横浜横須賀道路堀口能見台ICがあり、釜利谷JCT経由で狩場・横須賀方面との行き来に利用できる。 施設能見台
能見台森
その他日本郵便
警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[21]。
関連項目脚注
参考文献
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