能登氏
概要能登氏は越前国能登郡(のちに能登国鹿島郡)を本拠地とした氏族である。 出自に関して、『古事記』では、崇神天皇の皇子・大入杵命の後裔氏族される。また『先代旧事本紀』「国造本紀」では「能等国造」の出自について、垂仁天皇の皇子・大入来命の孫の彦狭嶋命が国造に定められたと記している。ともにオオイリキノミコト(大入杵命・大入来命)を祖名としていることから、「能等国造」が能登臣であった可能性は高いものの、両所伝でオオイリキの系譜が異なっている。また、彦狭嶋命の系譜も『日本書紀』と異なっており(『日本書紀』は崇神天皇の皇子である豊城入彦命の孫とする)、国造本紀の系譜は能等国造が独自に伝えていたものとも考えられる[1]。 さらに、同じく「国造本紀」によれば、仁徳天皇の時代に能登国造と同祖である素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)が加宜国造に定められたとされる。素都乃奈美留命は同本紀の高志深江国造条では道君とも同祖とされているが、道君は大彦命の末裔とされているため、ここでも系譜の齟齬が生じている[2]。 『日本書紀』巻第26によると、斉明天皇6年(660年)3月に、能登馬身龍が阿倍比羅夫の蝦夷征討に従軍し、粛慎との戦いにおいて戦死している。このとき、阿倍比羅夫は越国守であり、日本海を北上して進軍したと想定されることから、遠征軍の主体は能登臣ら北陸地方の豪族であったと考えられる[1]。 また、『万葉集』には羽咋郡擬主帳であった能登乙美の歌が収められている。能登臣の本拠地である能登郡が能登半島の内浦であるのに対し、羽咋郡は能登半島の外浦に位置し、かつ律令制以前は羽咋国造の勢力圏であったと考えられているため、奈良時代には能登臣の勢力が能登半島全体にまで及んでいた可能性がある[1]。 馬身龍以外にも、中央官庁に出仕した能登臣の活動は、「正倉院文書」から確認できる。『親信卿記』によれば、平安時代には、左衛門府生・能登公蔭という下級官人が確認できるが、同時期には能登連という氏族も出仕していたらしく(『除目大成抄』)、公蔭らが能登臣の系統であったかは不明である[1]。 神社
墓石川県七尾市には矢田古墳群が展開しており、能登臣との関係性が指摘されている[1]。 また、中能登町にある親王塚古墳は能登国造の祖・大入杵命の墓として陵墓に指定されて宮内庁の管轄になっている[4]。 脚注
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