美々津
美々津(みみつ)は、宮崎県中北部、日向市南部の地域。町名としては美々津町。地内には宮の下、高松、落鹿、駅通り、石並、新町、立縫、別府、余瀬、田の原がある。日向市美々津町の郵便番号は889-1111(日向郵便局管区)。 本項では同地域にかつて所在した児湯郡美々津村(みみつむら)、美々津町(みみつちょう)についても述べる。 概要旧児湯郡美々津町。1955年(昭和30年)日向市に編入。耳川(美々津川)右岸から石並川流域を占め、西部は尾鈴火成岩の山地、沿岸部は宮崎平野の北縁をなす。 耳川河口の美々津港は江戸時代は高鍋藩の上方交易港、明治・大正時代は入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港となり美々津はその港町として栄えた。 当時の建物、敷地割が残り、瀬戸内船運の西端にあたり、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家が連なり、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定される。 「美々津の歴史的街並」で、昭和61年度手づくり郷土賞(人と風土が育てた家並)および平成17年度同賞大賞受賞。 歴史
古くから港としてにぎわいをみせ、室町時代には日明貿易港としても発展していたことが知られ、江戸時代中期の1740年(元文5年)には洪武通宝(洪武帝の時代に中国で作られた銭貨)240枚が掘り出されたとの記録がある[1]。 戦国・安土桃山・江戸時代
明治維新後
第二次世界大戦後 - 現代
東征伝説神武東征出発の地との伝説が残っている。ただし、記紀には美々津もしくはそれと同定できる記述はない。古事記には日向国とのみあり、日本書紀には記述がない。 伝承伝承によれば、神武天皇の出航日は旧暦8月1日である。(日本書紀によれば旧暦10月5日である) 神武天皇はこの日の昼に出航の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。このことから、旧暦8月1日には起きよ祭りが開かれる。時間がなかったので着物のほつれに気づいても直す暇がなく、立ったまま縫わせた。そのためこの地を「立縫いの里」と呼ぶ。住人たちは出航に合わせて餅を作る予定をしていたが、急遽、小豆と餅米を一緒について渡した。これを「お船出団子」と言い、今に至るまで美々津の名物となっている。 立磐神社には、「神武天皇御腰懸磐」がある。神武天皇が出航の際にこの岩に腰掛け指揮したとされ、社名の「立磐」もこれに由来する。神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とする。 紀元2600年記念1940年、紀元2600年記念行事の一環として、海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社の主催で、おきよ丸が建造され、神武東征の航跡をたどり、美々津から大阪中之島まで航海し橿原神宮に神楯を奉献した。 続き1942年、「日本海軍発祥之地」碑と両爪錨の像が立てられた。碑文は米内光政内閣総理大臣・海軍大将の筆による。占領期に碑文が一部連合国軍により破壊されたが、現在は修復されている。 交通
河川施設
重要伝統的建造物群保存地区→選定内容については「重要伝統的建造物群保存地区」を参照
重要伝統的建造物群保存地区データ名称:日向市美々津 ふりがな:ひゅうがしみみつ 種別:港町 選定基準:伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している 所在場所住所:宮崎県日向市 面積:9万2000平方メートル 解説文:幕末から明治・大正期にかけて廻船業を中心に賑わった港町。地区内には3本の主道路と「ツキヌケ」と呼ばれる防火路が設けられ、それぞれの通りに切妻・妻入り、平入りの建物が混在している[3]。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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