飫肥
飫肥(おび)は、宮崎県の南部、日南市中央部にある地区。もと那珂郡飫肥村で、飫肥城を中心とした伊東氏・飫肥藩の旧城下町である。「九州の小京都」とも称され、多くの観光客が訪れている。江戸時代初期からの地割や歴史的風致のある町並みが多く残され重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。そのため日南飫肥伝統的建造物群保存地区についても、ここで記述する。 地理・歴史飫肥は平安時代に藤原荘園として開拓されたことに始まり[1]、南方には海上交通の拠点として重要な油津港、外之浦港に通じ、西方には都城に通じる交通の要所であった[2]。飫肥城は、飫肥の北側にある丘陵を利用して築城されているが、城の創築についての詳細は明らかではないが、一説によると荘園時代に置かれた日向八院の一つの飫肥院が始まりとされる[2]。 飫肥の地は、酒谷川が「ひ」の字状に曲流することで、東、西、南の三方を半円状に酒谷川に囲まれ、酒谷川よりも南側、東側、および城の北側には山丘が広がり盆地状の天然の要害となっている[2]。 室町時代末期の長禄2年(1458年)に、伊東氏の南下に備えた島津氏が、志布志城主だった新納忠続を飫肥城に入城させた。1484年(文明16年)、伊東祐国・祐邑の兄弟が飫肥に攻めて以降、伊東氏と島津氏による飫肥争奪戦が約100年間に渡り続いた[3]。1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐後、その功績により、天正16年(1588年)、豊臣秀吉により伊東祐兵が飫肥城に封ぜられた[2]。(詳細は飫肥城参照)以後、1871年(明治4年)の廃藩置県まで14代、約280年にわたり飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄える[2]。 飫肥城はシラス台地の自然地形をそのまま利用した中世城廓であったが、貞享元年(1684年)の大地震によって城廓が大きく崩壊したため、貞享3年(1687年)から8年の歳月をかけ大改築をおこない、現在にも残る犬馬場周辺に見られるような塁壁や石垣を多用した近世城廓となった[4]。ただ、城廓全体を見れば自然地形のままの部分も多く残っている[4]。 飫肥藩には広大な山地と長い海岸線があるが平地が少ないため、良好な耕作地が少なく農産物の生産高は少なかった。しかし飫肥地区では山林資源に恵まれていたため、飫肥城改修工事、手伝普請、藩内の堀川掘削工事などの費用捻出するためには、山林資源が藩の主要専売品として大きな役割を果たした[5]。飫肥は高温多湿で、飫肥杉は成長が早く、また油分が多く軽くて弾力性に富むという特性があり、造船材に最適だったため全国にその名が知られた。文化、文政年間には、植木方による造林事業で飫肥藩内の山々は杉山となり、飫肥杉は藩財政を支えていた[5]。 1871年の廃藩置県により、城内の建築物は全て取り壊される[2]。 明治から昭和40年代にかけ、飫肥杉による好景気が続く[6]。 1913年(大正2年)に飫肥地区、油津地区間に県内最初の軽便鉄道が敷設された[7]。 1950年(昭和25年)に飫肥町、吾田町、油津町、東郷村が合併し日南市となる。 1974年(昭和49年)から飫肥城復元事業が始められる。 1977年(昭和52年)に飫肥が重要伝統的建造物群保存地区に選定される。 2009年(平成21年)日南市、北郷町、南郷町の3市町が合併し、現在の日南市となる[8]。 城下町飫肥藩初代藩主となった伊東祐兵は、すぐさま城下町の建設に取り掛かっており、『日向記』によると、慶長4年(1599年)に前鶴地区の屋敷割を行ったとある[9]。また家臣団は清武、酒谷、南郷地区などに分散していたが、慶長20年(1615年)の一国一城令が制定されたことにより、飫肥城下への家臣団の移住が促進され、城下町建設に一層拍車がかかったと考えられている[9]。承応元年(1652年)から万治2年(1659年)に描かれたと考えられる城下絵図があるが、明治以降に発展した小川地区、新町地区を除くと、現在の飫肥とほとんど同じ地割が残っている[10]。城下町は、城の南方へ広がるが、平安京に似せて作られたといわれ、正方形に近い碁盤の目状になっており、歴史的風致とともに九州(または日向)の小京都とも呼ばれている[11][12]。また、街路幅も江戸時代初期のまま維持されていることから、街路に面する門、石垣、生垣などが良好に残されている[12][11]。地割は、飫肥城に近い方から上級家臣、中級家臣、町家、下級家臣の順に屋敷が配置されていた[13]。また、武家屋敷は格式に応じ門を構え、地元素材の飫肥杉や飫肥石を使用した建築物や石垣、またその上にお茶などの生垣で囲まれているのが特徴である[12]。石垣は、飫肥石の切石積みや川原石の玉石積みなど様々で、飫肥石はシラスが固まった溶結凝灰岩で加工しやすく、飫肥城や各屋敷の石垣、敷石や墓石などにも使われている[14]。 明治時代以降、武家屋敷の多くは居住者が変わり、それに伴って多くの建物が建て替えられ、また敷地の一部は細分化もされた。しかし、地割りや街路の大半は、江戸時代前期の面影を残し現在に至っている[15]。 大きな変化としては、昭和40年代に県道432号線(元狩倉日南線)が、昭和50年代には商人町を通る本町通り(国道222号線)が拡幅されている[15]。このとき商店会が中心となり、家屋の新築、改築において、昔ながらの家並みや、バス停の標識、ゴミ箱、ベンチなどのデザインの工夫、木灯を配置するなどにより本町通りの町並みを再現している。このことで「本町商人通りの街並」が、1987年度(昭和62年度)に、手づくり郷土賞(いきいきとした楽しい街並み)、および2013年度(平成25年度)に同賞大賞を受賞している[16]。
飫肥城復元事業日南市内にある日南海岸国定公園は、戦後の早い時期から宮崎交通・岩切章太郎氏により、フェニックスの植林などの沿道修景や観光開発が行われたことにより、昭和30年代から昭和40年代に新婚旅行ブームが起きた。この観光客を誘致するため1974年(昭和49年)に飫肥城復元事業が始められ、飫肥城を中心に伝統的な住宅からなる武家屋敷群が1977年(昭和52年)に九州で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されることに繋がった[17]。 飫肥城復元事業の主なものを以下にあげる[17]。
これらの総事業費は5億1800万円を費やしたが、このうち2億2000万円が市民、市出身者や有志企業からの募金で賄われている[17]。
重要伝統的建造物群保存地区概要1977年(昭和52年)に、「地方における小規模な城下町の典型的なものとして侍屋敷の歴史的風致をよくあらわし、我が国にとってもその価値は高い」として、九州地方で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された[18]。
歴史的風致の維持と向上の課題重要伝統的建造物群保存地区は、歴史的風致を良く留める地区である。しかし、条例によって歴史的景観の保存がなされているのは、保存地区内のみである。城下町全体の面積としては100 ha近くあるが、保存地区となっているのは、そのうち19.8 haのみである[21]。大半の約80 haは、都市計画法や建築基準法に基づく規制や基準を満たせば、自由に建築行為が行なうことができる。そのため、歴史的景観にそぐわない建築行為も可能であり、保存地区外の歴史的風致のある建造物や街路が今後失われる可能性が高い。また、保存地区周囲にある丘陵・斜面緑地、酒谷川清流などの風致も、飫肥城下町と一体の風致として共に保存すべきと考えられる[21]。保存地区内の各所に点在する歴史的建造物で、文化財的価値の高い物件でも放置空き家の場合があり、保存、改修に多額の経費が必要である。しかし民間所有物件の場合、所有者による維持、管理は困難である。飫肥地区住民の高齢化は40%を超えており、空き家、空き地が増加し、今日まで評価が行われてこなかった保存地区外の歴史的建造物も空き家となり取り壊しされる例が増加している[21]。それに伴い、新規建築物で周囲の歴史的景観にそぐわない物件も散見する。また、保存地区外に点在する寺社跡や近世墓地等も管理者が不在となっていることが多く、冬期以外は雑草に覆われ存在の確認すら難しいものが多い。城下の街路においては、電柱が景観をそこねる要因となっている[21]。 飫肥地区は、日南市を代表する歴史的町並みであり観光地となっているが、重要伝統的建造物群保存地区外の景観保全と空き家、空き地問題は、今後の当地区における歴史的風致向上を見据えた町づくりの大きな課題となっている[21]。 主な施設現在の住居表示における「飫肥」地区は三方を酒谷川に囲まれた旧・城下町のみであるが、住居表示における「飫肥」地区外であっても飫肥藩伊東氏に関連深い施設があるため載せている。
飫肥の文化財
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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