筑前国分寺
筑前国分寺(ちくぜんこくぶんじ)は、福岡県太宰府市にある高野山真言宗の寺院。山号は龍頭光山。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、筑前国国分寺の後継寺院にあたる。 本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である筑前国分寺跡(国の史跡)・筑前国分尼寺跡(指定なし)・国分瓦窯跡(国の史跡)についても解説する。 歴史大宰府政庁跡から北西方の台地上に位置し、現在の国分寺は創建時の僧寺跡と重複する。その西方には尼寺跡が、東方には両寺の瓦を焼いた瓦窯跡(かわらがまあと)が残っている。 聖武天皇の詔による建立とされるが、創建の記録は残っていない[1]。古くは、延暦20年(801年)に四王院から仏像・法具が「筑前金光明寺」に移されたという記録がある(大同2年(807年)に元に戻す)[2]。『延喜式』での筑前国分寺料は32,293束[2]。 その後、江戸時代中期には寺は廃絶していた[2]。江戸時代後期に入ると薬師如来を安置する堂と小庵があったと文書に記されているが、これは後継の現・国分寺と見られる[2]。 その後継国分寺の歴史について、寺伝では、江戸時代には創建時の国分寺は廃絶していたが、江戸から来た修行僧が国分寺の廃絶を嘆いて小庵を結んだという[2]。その後、元文年間(1736年-1741年)、天明年間(1781年-1789年)の勧進によって、修復・再興が図られた[2]。その後、文政10年(1827年)に本堂を焼失、天保4年(1833年)に庫裏が再建されたと伝える。 境内現在の伽藍は、創建時の金堂跡に重複する。堂宇は本堂・礼拝堂・観音堂・庫裏等を備えている。門前の八角燈籠は、東大寺大仏殿前の燈籠をモデルとして近年に制作された。
筑前国分寺跡僧寺跡の寺域は約192メートル四方。伽藍は、中門・金堂・講堂が直線上に配置され、中門左右から出た回廊が金堂に取りつくものである[1]。そして、その回廊内部に塔が配置される[1]。塔を回廊の外に出す東大寺や東国国分寺と異なるこの形式は、九州や奈良時代以前の寺に多いとされる[1]。塔は七重で、その10分の1の復元模型が太宰府市文化ふれあい館の屋外に展示されている。 発掘調査の結果、9世紀に塔・講堂が瓦積基壇から乱石積基壇に改修され、10世紀に塔が、11世紀に講堂が廃絶したと見られている[1]。その後は金堂のみが草堂的に存続したとされる[1]。現在は金堂跡の上に現・国分寺が立ち、周りの講堂・塔・回廊の位置が復元されている。
筑前国分尼寺跡尼寺跡は、僧寺の西方約100メートルの場所に推定される。遺構としては掘立柱建物(南門と推定)や東外郭線と見られる溝等が見つかっている[3]。また、中枢施設のものと見られる礎石1個が南方の国分共同利用施設に、もう1個が太宰府市役所前の庭に移設されて残っている[4]。 発掘結果から、尼寺は8世紀後半頃から9世紀後半の間であったと推定される[3]。平成27年(2015年)には、国分尼寺であったことの初めての物証となる「花寺」銘の墨書土器が見つかっている[5]。現在は、遺構の史跡整備はされていない。
国分瓦窯跡国分瓦窯跡(こくぶかわらがまあと)は、僧寺の東方に位置する瓦窯の遺構。山の谷を利用して窯が築かれていたが、江戸時代に谷はせき止められて池になっている[1]。かつては9基以上が確認され、うち2基が調査されたうえで埋め戻されている。 出土遺物から、奈良時代初めから平安時代の長期に渡って使用されたと推定されている[1]。この窯で焼かれた瓦は、国分寺のほか、大宰府政庁・観世音寺にも運ばれたとされる[1]。 文化財(国分寺で所蔵する文化財とともに、国分寺跡に関する文化財・史跡も記載) 重要文化財(国指定)
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