下野国分寺跡下野国分寺跡(しもつけこくぶんじあと)は、栃木県下野市にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、下野国国分寺の寺院跡にあたる。現在は整備され、史跡公園となっている。 本項では同じく国の史跡である下野国分尼寺跡についても解説する。現寺院については下野国分寺を参照。 概要下野市西部、姿川と思川に挟まれた台地上に残る寺院跡である。思川の対岸には下野国庁跡も残っている。一帯は栃木県内最大級の前方後円墳である吾妻古墳・琵琶塚古墳・摩利支天塚古墳が残るように、古代から下毛野氏の本拠地として先進地帯であった。 国分寺・国分尼寺跡は600メートルほどの距離で東西に並んで発掘されており、現在は下野市天平の丘公園として整備されている(風土記の丘)。公園には日本三大桜(神代桜・淡墨桜・三春滝桜)と石割桜の子孫樹や各種ヤエザクラなどの多品種のサクラが植栽されており、春の開花時期は大勢の花見客でにぎわう[1]。 また、史跡周辺はコナラやクヌギ、ケヤキなどを主とする北関東を代表する平地林となっており、栃木県により国分寺緑地環境保全地域に指定されている[2]。 下野国分寺跡寺域は南北457メートル・東西413メートル[3]。伽藍は奈良東大寺同様の東大寺式伽藍配置で、南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂は回廊で接続している[3]。塔は回廊の外側東方に設けられ、その基壇の大きさから七重塔であったと推定されている[3]。そのほか、金堂・講堂の間の東西には鐘楼、経蔵が設けられていた[3]。 発掘調査の結果、1期から5期に区分されている[3]。
終焉は不明ながら、発掘の結果からは11世紀-12世紀代まで法灯が伝承されたと見られている[3]。 各伽藍の詳細は次の通り。
下野国分尼寺跡下野国分寺跡の東方約600メートルに位置する。寺域は南北約270メートル・東西約145メートルで、その東側に南北約211メートル・東西約52メートルの張り出し部分が存在する[4]。伽藍配置は国分寺同様に東大寺式であるが、塔は建てられなかった[4]。
文化財国の史跡
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脚注参考文献外部リンク |