竹鶴リタ
竹鶴 リタ(たけつる リタ、1896年(明治29年)12月14日[1] - 1961年(昭和36年)1月17日[2])は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝(1894年(明治27年) - 1979年(昭和54年))の妻。通称:リタ。 生名はジェシー・ロバータ・カウン(Jessie Roberta “Rita” Cowan)。 略歴グラスゴー(イギリス・スコットランド南西部)郊外のイースト・ダンバートンシャー カーキンティロック地域[3]で、医師の長女として誕生[4]。 4人姉弟。次女はイザベラ・リリアン・カウン(通称:エラ)。エラの3歳下に三女ルーシー、その下に弟ラムゼイがいた[5][6]。リタは幼少の頃から偏頭痛に悩むことが多く、15歳になると学校に通えず、個人教授を受けた。18歳でグラスゴー学院に入る頃は健康を取り戻し、音楽・英仏文学を学ぶ。卒業後は自動車の運転免許を取得し、父の往診の手伝いもした。 ![]() 有機化学と応用化学を学ぶためスコットランドのグラスゴー大学に留学(1918年(大正7年)入学[5])していた[4]竹鶴政孝とは、リタが第一次世界大戦で婚約者を亡くして間もない1919年(大正8年)、当時同大学医学部に在籍していたリタの妹エラから弟のラムゼイへの柔道(柔術[7])指南を依頼された政孝がカウン家を訪れたことがきっかけで出逢う[8]。2人は音楽が共通の趣味で、リタがピアノ、政孝が持参していった鼓を一緒に奏でるなど[9]親睦を深め、政孝が「スコットランドに残っても構わない」とリタに打ち明けたことに対し、リタは「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と伝えた。国際結婚に抵抗感が強い時代であり、カウン家・竹鶴家のどちらからも反対されたことから、1920年(大正9年)1月[4]に登記所での略式結婚を選択し、同年11月に来日[10]。 ![]() 当初は、政孝が摂津酒造(現・宝ホールディングス)に就職したため、現在の大阪府大阪市住吉区帝塚山に居住。帝塚山学院において英語やピアノを教えた。また1924年(大正13年)・1931年(昭和6年)には政孝の視察に同行する形でスコットランドに帰郷している。その後神奈川県鎌倉市に移住したが、1934年(昭和9年)には政孝が寿屋(現・サントリー)を退社。北海道余市郡余市町で大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)を設立し、余市蒸溜所を開設して所内に居住。リタも翌1935年(昭和10年)9月、余市町へ転居した[11]。 1924年(大正13年)に妊娠をしたが、流産してしまう。それ以降、夫妻には子供が出来なかったため、1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子(後に改名してリマとなる)を、1943年(昭和18年)には政孝の甥である宮野威を養子として迎えた。しかし、養女のリマと夫妻との関係は次第に悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されなかった。 1955年(昭和30年)に肝臓や肺を病んだことから、冬季は政孝が東京で仕事をする際に滞在する神奈川県逗子市で[12]、夏季は余市で、生活するようになる。 1959年(昭和34年)に妹のルーシーが来日。これがカウン家関係者との最後の交流となり、1960年(昭和35年)秋に自身の希望で余市へ帰郷[4]。1961年(昭和36年)1月17日、肝硬変のため64歳で死去[13]。 リタに由来する施設・商品以下のものが存在する。
脚注
関連文献
関連項目
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