神代団地
神代団地(じんだいだんち)は、東京都調布市西つつじケ丘と、一部が狛江市西野川に跨がる住宅団地(公団住宅)[1]。日本住宅公団(現:都市再生機構)によって建設され、1965年(昭和40年)7月26日[2] に入居を開始した。最寄り駅は京王線つつじヶ丘駅。 概要団地の造成がはじまるまで、このあたりは「金子たんぼ」と呼ばれる農村地帯だった[3]。金子たんぼは地元では「泥っ田」とも呼ばれ、野川が頻繁に氾濫することで、田んぼは常に沼地状態で、農業をするための環境としては必ずしも好条件ではなかった[4]。終戦直後、食料増産を目的とした国による土地改良事業がスタートし、金子たんぼも事業指定地に認定され[4]、一帯の地中には何千本という土管が埋め込まれ、排水機能を向上される土地改良が行われた[4]。 ところが、水はけが良くなったと思ったら、頼りにしていた地下水は干上がってしまった[4]。あらためて野川から水を引き込もうとしても、生活排水による汚濁で水質が悪化し、米作りには不適だと判断された[5]。そんな折の1959年(昭和34年)、公団から団地開発の話が舞い込んだ。公団は都心にも近い、この農村地帯に土地売却を促した[5]。 農民たちの間では侃々諤々の議論があったというが、水不足によって将来の展望を描くことができない状況のなか、交渉は3年で決着がついた[5]。1962年(昭和37年)、農地は坪1万3000円から4000円で公団に売却され、大規模な団地造成工事が始まり[5]、住棟完成を受け、1965年(昭和40年)7月から入居が開始となった。 「神代」の名称は、つつじケ丘地区が属していた旧町名「神代町」に由来し、同時期に入居が始まった調布市・狛江市にまたがる大規模団地としては、東京都住宅供給公社が建設した多摩川住宅がある[6][7]。 住棟全59棟2,022戸で構成され、野川の北側は1〜44号棟と58・59号棟、南側はそれ以外の45〜57号棟で、そのうち南側の54〜57号棟の4棟のみ狛江市に属する[8]。33・35号棟は店舗兼住居として商店街を構成し、34号棟は住居兼マーケットのほか郵便局、銀行出張所(ATM)が含まれ、40号棟には管理事務所、58号棟には診療所が入る。また59号棟は1987年(昭和62年)に建設された新しい住棟である。 東西に野川が流れていることから[8]、調整池は無い。しかし団地建設当初は野川の大規模な流路変更の途上[9] に当たっており、新しい流路は東京都道114号武蔵野狛江線(松原通り)の付近で止まり、下流はまだ掘削中で、先行して整備された団地内の流路部分は、現在の護岸に沿って高谷橋付近を中心とした池となっていた。 ゆかりの作品かつての風景を偲ぶ資料として、神代団地が登場するテレビドラマ等を挙げる。
居住していた有名人
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia