磯部町檜山
地理志摩市の中西部に位置する。四方を山に囲まれ、地区の中央付近に小さな集落を形成する。西側を度会郡南伊勢町に接する。 北は志摩市磯部町山原、東は志摩市磯部町迫間、南は志摩市浜島町迫子・志摩市浜島町桧山路、西は南伊勢町神津佐(こんさ)と接する。 地名の表記志摩地域合併協議会は、2003年(平成15年)6月20日に町名・字名の取り扱いについて協議し、檜山の表記として「檜」を用いた[WEB 5]が、国土地理院の地形図や『磯部町史』では「桧山」の表記を採用している。ただし、同協議では南隣の浜島町桧山路は「檜」ではなく、「桧」を用いている[WEB 5]。 歴史中世に迫間村(現在の志摩市磯部町迫間)から4家族が移住し、開拓したのが始まりとされ、当時は迫間村の出郷扱いであった[1]。戦国時代には志摩国答志郡に属し、古書には「ひやま」と表記された[1]。当時の「ひやま」から伊勢神宮や別宮である伊雑宮の正殿造営の際にヒノキが切り出されたという[1][2]。天文23年甲寅12月(ユリウス暦:1554年12月)の記録によれば、依梨原(現在の志摩市磯部町恵利原)の伊雑宮仮殿造営山口祭の際に300文を拠出、慶長9年5月(グレゴリオ暦:1604年5月)の穂落しの社(佐美長神社)の作事に磯部九郷の村々と共に参加するなど、磯部とのつながりが深かった[3]。 江戸時代には伊勢国度会郡慥柄組(たしからぐみ)に属し、檜山村として紀州藩田丸領にあった。「天保郷帳」によると村高は67石と少なく、宝永7年(1710年)の戸数は7戸であったという[1]。また、檜山北部の新田開発により夏草(現在の志摩市磯部町山原小字夏草)や栗木広新田(現在の志摩市磯部町栗木広)が生まれ、後に栗木広新田は独立した村となった[2]。開拓には、五桂池建設のため水没地の多気郡五桂村(現在の多気郡多気町五桂)上五桂集落から移住した人々が大きく関与している[2]。宗教については、「天白の森」という名の森があり、天白信仰があったことが分かる[1]。江戸時代には伊勢国に属していたものの、檜山を開拓した人々の先祖の故郷にあたる志摩国迫間村で神社を造営する時には祝儀を送るなど、迫間村とは強い結びつきがあった[4]。 明治時代には、町村制施行により度会郡神原村の大字となる。昭和の大合併では神原村が分村合併を選択し、檜山はほかの神原村東部2地区とともに、磯部村に編入され、即日磯部村が的矢村と新設合併し、磯部町となった。平成の大合併では志摩市の1大字になった。 平家の落人伝説檜山には平家の落人が隠れ住んだという伝説があり、その証拠となる「平家の赤旗」2旒と古文書が残されていたが、明治初期の廃仏毀釈の中で焼却処分されたと伝えられる[5]。平家の落人の里であることの傍証として、檜山で平家ゆかりの熊野三山を祀ってきたこと、同じく平家の落人伝説の伝わる磯部町五知と同じ「小屋の谷」、「天白の森」という地名が残ることが指摘されているが、詳細は不明である[5]。 沿革
地名の由来伊勢神宮の御杣山(みそまやま)であり、ヒノキ材を切り出していたことにちなむという[3]。 世帯数と人口2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
人口の変遷1745年以降の人口の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
世帯数の変遷1745年以降の世帯数の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 9]。
2016年(平成28年)に廃校となる[WEB 10][WEB 11]まで檜山は成基小学校の学区であった[WEB 12]。 ミカン栽培檜山ではミカンの栽培が行われているが、稲葉英一の調査によると、檜山近隣の南伊勢町で栽培される五ヶ所みかんとは起源が異なるという[6]。檜山のミカン栽培は、1891年(明治24年)に檜山の西井松助が但馬牛を買いに兵庫県を訪れた際、ミカン栽培の話を聞き、帰路にミカン栽培先進地の和歌山県有田郡で栽培法や品種を学び、山林を開拓して翌1892年(明治25年)に植栽したのが始まりである[7]。しかし、その時結実したのはミカンではなくキンカンであり、その後接ぎ木でネーブルオレンジ・イヨカンの栽培を試みるも失敗してしまう[8]。初めて成功するのは、尾張温州を導入した1902年(明治35年)〜1903年(明治36年)頃のことで、以降栽培が広まっていった[8]。 交通
施設
その他日本郵便脚注注釈WEB
出典
参考文献
外部リンク |
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