磯部町三ヶ所
磯部町三ヶ所(いそべちょうさんがしょ)は、三重県志摩市の大字。半農半漁の地域で[1]、海女はいないが男性の海士が存在する[2]。 地理志摩市北部に位置する磯部地域の東部にある[1]。住所上「磯部町三ヶ所」となる地区は3つに分かれて存在し、三ヶ所集落が形成されている三ヶ所本体は的矢湾南岸に位置する[1]。このほか、的矢湾北岸に向井地[注 1]と須崎[注 2]の飛地がある[1]。三ヶ所集落は雑木林に囲まれ、里・今里・西浜などに分かれる[1]。 三ヶ所本体は、北から東にかけて的矢湾に面し、南は阿児町国府、西は磯部町坂崎と接する[1]。飛地の向井地は北から東にかけて磯部町的矢、南から西にかけて磯部町山田と接し、洲崎は四方を磯部町的矢に囲まれている。海を隔てて北東に渡鹿野島(磯部町渡鹿野)が浮かぶ[3]。 水産業2008年(平成20年)現在の三ヶ所の漁業就業者は101人である[WEB 5]。三ヶ所を管轄する鳥羽磯部漁業協同組合(JF鳥羽磯部)三ヶ所支所に所属する組合員は194人でうち正組合員は28人である[WEB 6]。JF鳥羽磯部では2011年(平成23年)3月31日に坂崎・飯浜・穴川支所を閉鎖し[WEB 7]、三ヶ所支所がその管内を引き継いだ[WEB 6]。ノリ養殖と釣舟経営を主としている[WEB 6]。 三重県教育委員会による2010年から2011年にかけての調査によれば、三ヶ所には9人の男性海士(全員が舟人海士)が存在する[2]。年間操業日数は40日で、志摩市内の海士・海女のいる地域では最も短い[4]。市内の他地域では1日の出漁回数・時間に制限があるが、三ヶ所では制限を設けていない[5]。 上述の通り、三ヶ所は鳥羽磯部漁協の管轄地域であるが、三重外湾漁業協同組合の移動販売車「朝獲れ鮮魚便」の巡回地に含まれている[6]。 歴史三ヶ所では、室町時代以降の貝塚である三ヶ所貝塚が見つかっている[7]。江戸時代には志摩国答志郡国府組に属し、三ヶ所村として鳥羽藩の配下にあった[8]。『志陽略誌』などは「三箇所」と表記した[3]。村高は近世を通して227石であった[8]。50隻の船を所有し、うち商船が3隻、藻取り用のさっぱ船が11隻で、残りはちょろ船であった[3]。近海で難破船が発生した場合は救助に向かい、廻船から手数料収入を得ていた[3]。 明治以降、3度の合併を経験し、現在まで大字として存続している[8]。学制発布により開校した三ヶ所学校は1887年(明治20年)に的矢小学校の分教場となり、1889年(明治22年)に本校へ統合され姿を消した[9]。カキ養殖を行っていたが、1950年(昭和25年)を最後に行われなくなったが、1955年(昭和30年)2月の三重統計調査事務所『農林水産業表式調査』では「漁村で浅海養殖業に賃労働する集落」に分類された[10]。ここでの「浅海養殖業」は真珠養殖を指し、1960年代には33戸が従事していた[11]。1960年のチリ地震では三ヶ所と的矢間の筏160 - 170台が津波で流され壊滅的被害を受けた[12]。 1961年(昭和36年)4月1日、三ヶ所保育所が認可を受けて開所、1993年(平成5年)にひのでが丘保育所に統合されるまで存続した[13]。 沿革
地名の由来諸説ある[8]。
世帯数と人口2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
人口の変遷1746年以降の人口の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
世帯数の変遷1746年以降の世帯数の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 11]。
かつては、三ヶ所の児童・生徒は船で対岸の的矢にある的矢小学校(2016年3月31日閉校)・的矢中学校(2013年3月31日閉校)へ通学していた[16]。 交通阿児町国府から磯部町三ヶ所・磯部町的矢を経て青峰山に至る経路は、近世に主要路であった[17]。 陸上交通
海上交通以下のほか、1985年(昭和60年)7月1日まで近鉄志摩観光汽船により、磯部町穴川との間を約40分で結ぶ定期船が運航されていた[18]。
施設
寺社
その他日本郵便脚注注釈WEB
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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