生天目仁美
生天目 仁美(なばため ひとみ、1976年8月4日[7][9] - )は、日本の声優、女優、歌手。新潟県佐渡市生まれ、神奈川県横浜市出身[3]。賢プロダクション所属[5]。スクールデュオ講師で特別講義を担当[10]。既婚。 経歴生い立ち声優以外で少女時代に憧れていた職業は小学校の教師だったという[4]。小さい頃から歌を歌うのも好きだったという[11]。まだ言葉もはっきり話せなかった頃に、ピンクレディのマネをして、テレビを相手役に振り付けをしながら、1人で歌っていたようだった[11]。子供の頃は、毎年夏になると祖母の家で過ごし、母がその時、歌を祖母に聴かせようとしていたようで、歌っている歌をカセットテープに録音し続けてくれたという[11]。3歳から5歳ぐらいは歌う曲も決まっており、生天目は『キャンディキャンディ』を歌っていた[11]。小学生の時から、学芸会などに出ることが好きだったり、放送委員などで発表したり、人前で何かをすることは楽しかったが、芝居をしようという気持ちはなかった[11]。その時、放送部でお昼放送に民話の『吉四六さん』を読み、流したことがあり、このことを、芝居が好きになったのだと語る[12]。学校で、手を挙げて率先して国語の教科書も読んだりしており、人前で何かをするのには抵抗がなく、好きだったんだと語る[11]。 当初は芝居、演技などに興味はなかったが、母が観劇などが好きだったため、一緒に行っていた[11]。初めて観ていた舞台はミュージカル『レ・ミゼラブル』であり、当時は内容がわからなかったが、感銘を受けて「舞台に立ってみたい」[1]、「お芝居やりたいな」と思うようになった[13]。 ある時までは幼稚園、小学校の教師になろうと考えていたため、大学に進学しようと考えていた[11]。 担任の教師に「お前はやりたいことがあるのか?」と尋ねられ、「学校の先生になりたいけど、ちょっと演技にも興味がある」と話しており、教師が「親のすねはかじれる時にかじっとけ」と言ってもらい、その時に「親のすねをかじってもいいんだ」と思い直したという[11]。そう言われた瞬間に「やりたいことをやろう」と思い、「私はミュージカルをやりたい」と資料請求したり、体験入学に行ったり、申込書を書いていた[14]。その後は両親を説得し、両親は教師に「ミュージカルをやりたい」と言っていたことを知っていたため、突然の変化に驚いており、初めは両親は「えっ?」という感じだったが、「やりたい」という気持ちを話し続けて、両親も「じゃあ好きなことをやってみたら」という感じになってくれたという[14]。 代々木アニメーション学院[15]、専門学校東京コンセルヴァトアール尚美(現在の尚美ミュージックカレッジ専門学校)卒業[16]。 ミュージカルの専門学校に体験入学した際に生まれて初めて発声の練習など体験したが、時期が遅かったせいもあり体験入学に来ていた人数はあまり多くなかったという[14]。 専門学校時代はミュージカル科ということもあり、周囲の皆は小さい頃からピアノを習っていたり吹奏楽部に所属していたりと何かしらの音楽活動を経験していた人物がほとんどだった[14]。全く音楽の経験がないまま入学した生天目はスタートの時点で劣等感を感じ、ついて行けないこともたくさんあったという[14]。一番苦手だったものが楽典と呼ばれる音楽の歴史、楽譜の読み方などで、長調、短調などが分かりにくかったという[14]。その他には入学当初は皆の前で歌うことも少し恥ずかしかったとも語っているが、ダンスはそれなりにこなすことができており、特別うまくはなかったが、置いていかれるほどではなかったと語る[14]。同時に色々嫌になり、母に「学校を辞めたい」と漏らしたこともあり、その時に母が「行きたくないんだったら辞めたらいいんじゃない。明日退学する?」とあっさりと受け入れられてしまったため、誰にも芝居を強要されている訳でもなく、誰かに「辞めてください」と言われもおらず、「すべて自分次第で決まることなんだ」と思ったという[17]。 専門学校時代より、さまざまなオーディションに参加。専門学校時代に職業としての声優を知ったという[18]。ラジオ『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』内で、声優志望者によって結成された「ドリカンクラブ」の一員として、田村ゆかり・堀江由衣・浅川悠らと短期間活動していた[19][注 1]。 2年間学ぶなかで、芝居のレッスンはほとんどなく、週に1回1時間だけの芝居のレッスンが一番好きだった[14][18]。 2年終了後、芝居を勉強したくなったため、学校の教師達に「劇団に入りたいんです」と話をていたところ、「何を言ってるんだ」という感じだった[14][18]。 専門学校で学んでよかったことは芝居をに出会えたことで、「もっとやりたい」と思わせてくれたことは大きいと語る[14]。あとは、皆で一つのものを作るということを考えさせられ、同じ目的、同じ方向を向いている人物達が集まっていたが、色々な考えがあり、刺激になった[14]。専門学校に行っていたところ、音楽を学んでいた人物、色々な地域から上京して学びに来ていた人物ばかりでその環境は新鮮だった[14]。そういう出会いがあったおかげでクラシックも少し興味を持って聴くようになったり、友人が薦めてくれたミュージカルなどを観たりするようになった[14]。 キャリア女優として卒業後は、映画『Shall we ダンス?』に出演していた柄本明の芝居に感銘を受け、「劇団はどこも厳しくて大変。それなら好きな役者さんのいるとこに行きたい」と思うようになり劇団東京乾電池の養成所を受験していた[14][20]。両親もその頃は寛容で、実家にいたためまだ安心だったのかもしれないという[20]。養成所の定員が40名で受験者が400名ぐらいいたと聞いており、合格するとは思っていなかったという[20]。受験の内容は即興劇、エチュードで、試験の控室に行ったところ「待ち合わせ」、「突然の出来事」、「私の職業」、「私の故郷」、「自由課題」と5つの課題が書かれており、「この中で好きなのを選んで会場に入ったらやってください」との指示があった[20]。審査員は誰がいるかも全く知らない状態で5人1組で会場に入ったところ、柄本が真ん前におり、「何だか怖い」と思った[20]。生天目が選んだ課題は「突然の出来事」で、その時、演じていたのは「私が家に帰ってきたら弟がテレビを見ていて、私も一緒に見ようと弟の隣に座ると突然テレビが消えてしまう。驚く。そこで弟にテレビを消したと問い詰める。そして、私が席を立とうとするとテレビが勝手にまたつく。それの繰り返しで立ったり座ったりを繰り返す」というようなエチュードで、オチとしては「自分がリモコンのスイッチを踏んでいただけ」、ということを考えていたという[20]。芝居は3分あるかないかの時間だったが、いっぱいいっぱいでとても長く感じていたという[20]。養成所に入所後、仲間たちと、入所オーディションで何をしたか、のような話をしていた時に、仲間の1人は「私の職業」を選択して冷蔵庫を演じていたようだったという[20]。養成所に一緒に入所した仲間の中では、生天目は一番年下で、一番年上の人物は自身より一回り上であった[20]。その時は一番年上の人物とは、今までの環境からは、同期で一緒に芝居をするということは思いもしなかったことから新鮮な感じであったという[20]。 最初のレッスンの際、柄本が来ていた時、皆で円になり柄本の話を聞いていたのだが、最初に「芝居をやる奴なんて、お前らみんな○○なんだよ」と言われ、凄くショックを受けていた[20]。その後、「お前ら『がちょーん』って言ってみろ」と急に言われ、初めは皆シーンとしてしまったが、順番に円の中央に進み、それぞれが『がちょーん』をしていた[20]。柄本は「違う」とだけしか言わず、生天目たちには何が違うのか分からず、その後、何人かがした後に、柄本が「違うんだよ。こうだよ」と言って、『がちょーん』をしてくれたが、全く違いが分からなかったという[20]。 この養成所では「こうしろああしろ」と言われることもなく、「毎回毎回違う」と言われる稽古が続けられ、劇団東京乾電池に入り一番感じていたのは、「自分で考えることが大事なんだ」ということだったという[21]。当時は曖昧な気持ちを持ち続けながら稽古をしてきたが、ある日稽古に顔を見せていた柄本に止められて、同じシーンを3度演じるように言われた際、演じる度に「今のは分かっていない」、「ほら、今のは分かってた」と言われ[21]、「芝居に正解はないんだなぁ」、「きっと、私は、今まで答えを出すことばかりにとらわれていたのかもしれない」ということに気が付いたという[21]。 1年間養成所に学んだ後の卒業公演で選ばれ、1998年に劇団東京乾電池に劇団員として入団し、女優として活動する[7][21]。当初は全く分からず、落選してしまった人物のなかでとてもおもしろい人物もおり、「この違いは何なのだろう」と思ったという[21]。ある時劇団員の先輩に、生天目のオーディション時のことを聞いたことがあったが、その先輩は、「この子受かるだろうな」と思ってくれていたようであったという[21]。2009年時点で声優の世界におり、他の劇団出身の人物、劇団の人物と仕事をさせてくれる機会があるが、色々なことが曖昧な中でしてきたため、「決められた表現というのは難しいな」と思うこともある[21]。たまに「劇団出身だからすごいんでしょ」と言われることもあるが、前述のとおり曖昧な中で生きてきただけのため、すごいことなんて何もないと感じていたという[21]。初仕事は養成所のオーディションの手伝い[21]。劇団で舞台をしていた頃に先が見えなくなり、アルバイトをして、チケットノルマを払い、ステージに立ち、舞台は客との距離は近く、臨場感あることがとても楽しかった[18][21]。しかし一つの小屋の中で、芝居をし続けていくことに、「これでいいのかな」と思い始めてこれでは「自分は役者」と言えなかったと語る[18][21]。稽古が辛く苦しく、毎日、吐いて、飯食べられないことから、点滴うってから稽古に行っていた[22]。その時、「この舞台が終わったら、芝居辞めよう」と思っていたが、千秋楽を迎えて、客のアンケート見ていたところ「よかったです」、「応援してます」と沢山反響があり、辛かった事が「ひょいっロケット」と無くなっていたという[22]。 劇団東京乾電池には養成期間も含めて4 - 5年在籍した[21]。その間に「お芝居では食べていけない」という現実があって両親からも「そろそろちゃんと就職したら」という話もあった[21]。劇団という環境に甘えているところもあり、「このままじゃいけない」と思い始める[21]。 声優としてある時、劇団仲間と話をしてある番組出演していた舞台役者の批判を聞いて「あ、やめよう」と決める[21]。色々な事に興味があり、「色んな事に挑戦できる世界はないかな…?」[22]、「自分の世界を広げたい」、「じゃあ、私がお芝居で生活する方法は」と考えていたところ声優業界に辿り着いていたという[18][23]。劇団が持つ特有の閉鎖性のようなものに少し抵抗があったかもしれないといい、劇団の中でも劣等生という意識がとても強かった[24]。稽古中に演出をしている人物が注意したり、怒ったりというタイミングがあり、積み重なってきたものが爆発する瞬間、大体その瞬間に居合わせしまうことが多かった[24]。怒られている時、周囲の皆が安心して行く空気がとても怖かったという[24]。そんな中で何年も続けてこられたのは劇団の柄本、ベンガルの芝居を間近で見られるというのはとても大きな財産で、そういう部分が、劇団にいる意味だったような気がしていた[24]。劇団員たちは皆柄本のような芝居を目指していたが、最初からそこへ行こうとしてもできるはずがなく、生天目は柄本の昔の芝居のビデオなども拝見していた[24]。その時に「私たちもそこにたどり着くためにはがむしゃらになってもがいてあがいてからでないとそこにはたどり着けないのでは」と、より強く感じていた[24]。芝居の奥深さ、人間そのものの深さ、魅力のようなものを劇団では学び、そういう部分では魅力だったが、「やはりこのままでいいのか」という思いが拭い去れなく、動いたという[24]。小さい頃からアニメなどは見ておらず、「声優の仕事をやろうかな」と思い、調べるまで無知だったが、専門学校在学中に声優好きだった友人が声優の凄さを話してくれたことを思い出した[24]。退団後[5]、「舞台をやっている人が多そうだった」ということから[22]賢プロダクション直属の声優養成所であるスクールデュオに4期生として入所する[25]。 劇団のカラーがあったかもしれないが、劇団に在籍中だった時は、滑舌などは取り上げて訓練するということなかったことから、当初は滑舌などのレッスンにはとても抵抗があったという[24][26]。賢プロの養成所の一般枠で入所すると専門学校などから入所する道を知っているところが馴染めず、初めは少し浮いた状態であったといい、「来るとこ間違ったかな」と思っていたという[26]。レッスン初日の始めの授業が発声と滑舌で、ミュージカルの専門学校時代、少し歌の発声はしていたが、滑舌は初めてであった[26]。その時に3時間のレッスン時間の中で1時間使われるくらい、集中的に直されていた[26]。ダメ出しに使われる時間が多く、うまくできなかったことからここでも劣等感を感じたと語っている[26]。後で聞いていたところ、周囲の人物たちも「できない人だ」と思われていたようだったという[26]。 芝居はとても楽しく、自分自身が楽しんで演じた芝居を講師から「おもしろい」と褒められ、周囲の皆も「アレ?」と思い直してくれたようであったという[18]。一時期、発声、滑舌のことなどで迷っていたが、途中で「そういうことにとらわれ過ぎているのは違う」、「どうやったらいいかと自分で考えることの方が遥かに大事なことだ」と思い直していた[18]。その後、「私は賢プロの養成所に何かを習いに来たわけではないな」、「声優になるためにここに来たんだ」、「ここでの時間は何かを習いにくるのではなく、何かを見せに来る時間だ」と思った[18]。劇団に在籍していた経験がプラスに働いていたと語り、教わることを受け付けない意識になっていたのかもしれないという[18]。 養成所時代のドラマCDを作る授業で、オーディションのような形で、主役の女の子役をくれたが、授業中に「どうしよう!?わからない!」とはじめはふれ腐れてしまった[18]。舞台の時は等身大の自分なため、全身を使えたわけであり、年齢の近い役しか演じたことがなかった[27][18]。声の仕事では体は見えないため、声にのみ集約しなければならず、その作業が最初慣れなかった[27]。その時、「今出している声は、本当に私の声なのか」と思い、どこかで違和感があった[27]。だんだんとしていくうちに慣れてきて、逆に表現の幅が広がり、「楽しい」と思うようになった[27]。一方、養成所の1年間は、声優としての芝居とのつきあい方の勉強で「声が変わるってどういうことだろう?」から始まった[18]。劇団時代のアンケートに「声がかわいい」と書かれたことがあり、どういう時に声が変わるのかを考えていたところ、電話、自分をよく見せたい相手と話す時は、「かわいくなってる…」などそういうことをどんどん見つけていった感じだという[18]。 養成所の在校中に少しだけ仕事をもらい、マネージャーがレッスンを見学していた際に「おもしろい」と思ってくれたようで、色々なオーディションを受けさせてくれた[26]。初めての仕事はゲームの仕事だったが、収録後にそのゲーム制作が途中でなくなってしまったため、生天目曰く幻の仕事である[26]。その幻の仕事で初めての収録に挑むこととなったが、1人での収録であったため、声優としての初めての仕事はそれほど緊張はしなかったという[27]。 2003年、養成期間中に、ゲーム『サムライスピリッツ零』のキャラクター“リムルル”役と、テレビアニメ『真月譚 月姫』のヒロイン“アルクェイド”役と、テレビアニメ『まぶらほ』のヒロイン“宮間夕菜”役に抜擢[8]されて以降、声優としてブレイクしていった。『真月譚 月姫』のアルクェイド役と『まぶらほ』の宮間夕菜役に抜擢されたのは最初、あるオーディションに落ちたが、音響監督が別の作品のオーディションの時、マネージャーに「あの子はおもしろいお芝居をしてたから呼んで」と言ってくれた[18]。受ける予定のなかった、オーディションを受けられ、今度はプロデューサーが、他のオーディションに呼んでくれたからである[18]。 声優の名前もわからないで声優の世界に入ってしまったため、始めは声優名鑑などを見て、勉強していた[22]。両親は生天目が声優として活動している生天目の姿を見ていくうちに変わってきたという[26]。 同じ事務所所属の伊藤静との声優ユニット「生天目仁美と伊藤静(ひとしずく)」としても活動した[28][29]。 現在まで2011年、演劇ユニット「なば缶」を立ち上げ、2014年までに3公演をプロデュースし、自らも出演した[30]。現在は休止中。 2014年8月4日、38歳の誕生日にブログにて入籍を報告した[31]。 人物趣味はドライブ。特技はソフトボール、バレーボール。資格はファイナンシャル・プランナー3級[5]。 radikoでラジオを聴くことにハマっている。聴く番組に偏りはあるが、深夜ラジオが好きである。特に好きな番組に『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』、『オードリーのオールナイトニッポン』、『空気階段の踊り場』を挙げている[5]。 尊敬する人物に藤山直美、麻生美代子、市原悦子、柄本明、ベンガル、松尾スズキ、両親を挙げている[3]。その中でも藤山にはとても影響を受けていた[32]。劇団時代、藤山に付いて3ヶ月くらい稽古から本番まで毎日同じ芝居を見続けていた[32]。その時に毎日笑ってしまい、毎日泣いてしまい、台詞は同じだが、舞台の空気は毎回新鮮で「それはとてもすごいことなんだ」と思った[32]。それを身を持って感じられたことは「ものすごい財産です」と語る[32]。 特色声優としては、数多くのアニメ、海外映画の吹き替えを担当している[33]。 美少女、姉御、令嬢などの役幅が広く、多数のヒロインを演じる[18]。 劇団時代は、どんな状況でも台詞が出てくるようにすると人物の会話がちゃんと聞けて、動きも考えられることからひたすら台詞を覚えていた[22]。そうしていたところ自分は何をしたいのか少しは見えたような気がしていたという[22]。 初めは声の仕事で男の子を演じる際にかなり戸惑い、自分の中に男の子という引き出しがなかったため[27]、自分がいくら声を低くしても男の子にならない感じがして、どうしたら良いのか迷っていた[27]。色々な人のアニメを参考にするなどして、少しずつ理解していったという[27]。 転機になったと思う作品はヒロイン役を演じた『真月譚 月姫』であるとし、以降は『灼眼のシャナ』のマージョリー・ドー役などのお姉さん役が増えたり、その次にはちょっとおかしなキャラクターが増えたりなど、切り替わる役がその都度あると感じていたという[18]。お姉さん役が少し定着した頃、『無敵看板娘』の鬼丸美輝役のような勢いで演じるようなキャラクターが増えたり、いいタイミングで自分の引き出しを開けてくれる作品に出演できたと思ったという[18]。 声優デビューしたのは年齢的には20代半ばと遅めであった[17][18]。その時は「早く自分の何かを見つけないと」と焦りもあったが、それぞれの役にちゃんと向き合っていれば、転換期に必ず自分に新しいものを与えてくれるキャラクターと巡りあえる気がするという[18]。 デビューする1年前から毎年の念頭に、自分がどうなりたいかを全部ノートに「ヒロインでデビューしたい」「レギュラーを10本持つ」「ひとり暮らしができくらい稼ぐ」など事細かに書き出していた[18]。劇団退団時に、「声優になりたい」などボンヤリしたものだけで明確な目標が見えてないと、向かい方が分からず、1年後に見返して、達成できていたら○を付けて、達成できなかったら、なぜダメだったかを考えていた[18]。そうすることで、生天目に何が足りないのかも明確に分かることから2015年時点でも続けているという[18]。 芝居をする上で大事にしているのは、キャラクター同士の実際の距離感と心の距離感を感じる事だという[4]。 エピソード好きな言葉は「冬は必ず春となる」[34]。家族構成は両親と弟の4人[35]。 読売ジャイアンツのファンである[36]。中学生時代はソフトボール部に所属し、ポジションはサード、センター、キャッチャー以外は経験し、最終的にはファーストであった[34]。高校進学前の春休みにバレーボールの漫画を読み、影響されて高校生時代はバレーボール部に所属していた[11][37]。その時はポジションはセンターで毎日泣かされて辛かったが、この時の厳しさが芝居をしようと思った時の根性につながったのかなと語る[11]。入部後は練習がきつく、多くの部員が退部していったが、何とか続けることができ、このことをソフトボール、バレーボールからは、「何かをやりきるということを養ったんじゃないか」と語る[11]。生天目の母親は、時々まんまるまる姫というペンネームを使って自分の娘の番組に娘への苦情を投稿したり、娘の番組に乱入しては良く喋り良くボケる所から、今ではファンからも「まる姫」と呼ばれている[38]。 劇団の頃から、日常生活をどれだけ感じられるかが一番重要なことだと語り、人物を見たり、友人と話をしていてもその中でわいてきた感情を改めて確認したり感情の発見ができる[26]。劇団に在籍中だった頃、当時付き合っていた彼と喧嘩して、悲しむ前に、「ああこういう気持ちなんだ」と思ってしまったこともあったという[26]。あとは、芝居のことを考える時間を1日に10分でも20分でも確保することで、トレーニングは、普通に腹筋背筋ぐらいはしていたという[26]。 友人のつてで最初は事務職のアルバイトをしていたが、芝居をしてることを予め伝えておいたところ、会社の社員達もとても応援してくれたという[26]。オーディション、仕事の時は「早引きや休んでいいよ」と言ってくれたり、理解してくれたりしており、「私は本当に恵まれてるなぁ」と思ったという[26]。 伊藤静との付き合いは賢プロの養成所の行ってた頃からで仕事が一緒になり、初対面だが、2人でランチしていた[39]。伊藤から「静って呼んで」と言われたが、生天目はなかなか呼べず、「し、しずか・・・・・・・・・・さんぼー」と始めの頃は照れていたという[39]。 『真月譚 月姫』のオーディションの時、スタジオに行ったところ沢山の声優がおり、「私なんでここにいるんだろう?間違ってない?」とビクビクしていた[1]。スタジオに入った時の監督を始めとしたスタッフの視線が怖く、手が震え、足が浮いている気がしていた[1]。『真月譚 月姫』のオーディションはスタッフを見てセリフを読むようになっており、「なら見てやろうじゃないの!!これは舞台だと思うのだ!!」と思いっきり客席見て喋った気がしていた[1]。アルクェイド役の感情がわからなく色々手探りで探している所と声優業界に来て、わからない事だらけで懸命にもがいている所がリンクして、「この役を頂けて良かった、アルクと悩みながらも進むことが出来て良かった」と思ったという[1]。2003年のTBSアニメフェスタ初日にて『真月譚 月姫』の担当声優の発表が行われた時には、同作のヒロイン・アルクェイド役に当時無名だった生天目の起用に驚きの声が上がるも、イベント二日目には早くもファンコールが起こる[40]。『真月譚 月姫』は芝居のトーン、話の流れが自分の感覚的に自然で演じやすかったという[18]。『真月譚 月姫』の最終話、アルクェイドが泣く予定はなかったが、芝居の中でどうしても泣きそうになることから、絵に涙を描いてくれたという[18]。 同時期に開始されたTVアニメ『まぶらほ』のヒロイン・宮間夕菜役にも抜擢され、遅咲きながら大ブレイクへの道を突き進む事となった。オーディションの時、マネージャーに「これ、私受けていいんですか?めっちゃ可愛いじゃないですか?!」と聞き合格した時は驚き嬉しかったという[1]。その一方、声優、芝居を辞めたいと思った時期は何度もあった[27]。『まぶらほ』に出演した時は、ほとんどアフレコ経験がない状態で現場に行き、1話目の時は台本と画面を両方を見ていたところ、どこをしているのか分からくなるくらい動揺して演技どころではなかった[18][27]。OKはくれたものの、自分の中では「最低の芝居だった」と、凄く悔しく、迷惑もかけたことから、終わった後にスタッフの部屋に「すいませんでした」と謝りに行っていたところ、ミキサーに低い声で「次はもうちょっとがんばってよね」、「来週はもっとしっかりやってよね」と言われた[4][18][27]。その言葉にがっくりして、電車の中で泣きながら帰り、「このままどこかに逃げようか」、「もう来週は行きたくないよ〜」、「逃げたい!でも、負けたくない」、「逃亡しようか」と思った[1][4][18][27]。2度目は1週間後だったため、その収録のために家で台本を読み込み、「今、私ができることはこれしかないから、とりあえず今やれることをやろう」とそんな気持ちで臨んでいた[27]。「前に進むしかない」、「せっかくここまできて逃げちゃダメだ」と少しずつ現場に慣れて、分からないことは全部先輩に聞くようにしていた[18][27]。数年後、そのスタッフに会った時、「いい役者になったな」と褒めてくれて、「あの日の悔しさが今の自分に繋がっているんだ、頑張る事は無駄じゃないんだ」と実感出来て、嬉しかったという[4]。 自分の中ではゆっくり歩いて色々なものを見て経験して進んで行こうと思っていた[17]。しかしデビュー時に『真月譚 月姫』『まぶらほ』のヒロインを2演じることになり、感じていた感覚は、ある日いきなり車に乗せられて、スピードを上げて走っていた感じであった[17]。見える景色がどんどん変わり、自分の中で今までに味わったことのない感覚であった[17]。スタッフの皆は、ある意味役者として持ち上げてくれたりしておりそういうのを味わった時にとても不安で怖くなってしまった[17]。 デビュー当時は無理やり引っ張られて、がむしゃらにしていたが、技術がなく何がなんだかわけが分からず、「もしかして私はこのまま流されて、何をやってるのか分からなくなってしまうのではないか……」、「自分がいい気になってしまうのではないか」と毎日が不安であった[17][18]。今まで劣等生であったが、いきなり持ち上げられた様な感覚に恐怖を感じたが、そのスピードに一生懸命ついて行こうと「どんどんぶつかって良いほうに転べば…」ぐらいの気持ちで必死に頑張っていたという[17][18]。 仕事が忙しくなり、その分、一つひとつの仕事に自分が全力を注げているかも気になり、手を抜かずに100%出しているつもりだが、「自分がそう思い込んでいるだけなのではないか」と迷ったりもしていた[17]。「仕事がいっぱいあって疲れています」というのは理由にならず、そういうことを考えると不安で不安でたまらなかった[17]。初めの1年2年はそんな感じで、特にアニメの仕事は放映されるまでに時間が少しあるため、余計にそう思ったのかもしれないという[17]。 こんな風にわき目も振らずに走り続けていた中、ある時、ファンから手紙をくれて、「自分が頑張ってきた結果がこういう形で出てくるんだ」とものすごく嬉しかった[17]。お金とは別に自分が頑張った姿が人に認められたというのは、別の次元でとてもとても嬉しいものであり、何度も挫けそうになったため、皆からの応援がとても励みになったという[17]。 その後は技術が身につき、やろうと思えば口先だけで芝居ができることから、それが怖く、未熟だからこそ精一杯であった頃の気持ちを忘れず、「そのつどの精一杯を出さなきゃ」と常に考えているという[18]。 2009年時点の生天目でいられるのは、周囲の力が大きいと語り、2009年時点の養成所時代の友人の手紙で「養成所の時になばちゃんがいたから頑張れたんだよ」と書いてくれて、嬉しかったという[17]。同じものを目指していた友人の中に、2009年時点の生天目を素直に認めてくれる人物がいることが、「とてもとても幸せだ」と思った[17]。同期の中で少し早めに仕事を始めたため、もし天狗になっていたらそんな友人は現れなかったと語り、そういう自分でいられたことも嬉しかったりしていた[17]。昔の友人に会い「いつ会ってもなばは、なばのままだよね」と言われるということは、「とても大事なことなんじゃないかな」と思ったという[17]。 2010年時点でも本番前、オーディションでは緊張しているが、「緊張するのは当たり前だ」、「緊張してても力が出し切れる位に自分を持っていければいいのかな」と思っているという[4]。 『スクールランブル 二学期』DVD第4巻の映像特典「清水香里のスクラン☆オフ会」の出演時、将来の夢を「長野で駄菓子屋をやりたい」と表明。さらに、その駄菓子屋に自分の孫たちが多数来店することを楽しみにしていて、その前提として出産(しかも多数)の願望が、さらにその前提としてまず結婚の願望があると語った。 『ハヤテのごとく!』第41話 - 42話では「桂姉妹の執事通信」の題字・イラスト(第41話のみ)も担当している。『神曲奏界ポリフォニカ クリムゾンS』第二奏のエンディングスタッフロールに「生田目仁美」と誤記されている。 2013年1月に『ドキドキ!プリキュア』で主人公「相田マナ(キュアハート)」を演じることが発表された。前年体調不良を繰り返していた生天目はそれでも芝居がしたいと思い、プリキュアのオーディションを受けたいとマネージャーに伝える[41]。マネージャーからは「お前には無理だよ。年齢的にも、キャラクター的にも」と反対されるもなお引き下がらず、「受かる受からないじゃなくて、チャンスを下さい。無理だなんて言わないで、少しでも可能性がそこにあるなら、やってみたいんです。」と言い返し、これを聞いたマネージャーは、プリキュアのために1年間のスケジュールを空けた[41]。今回の発表を受け、生天目と親交のある過去にプリキュアを演じた小清水亜美、折笠富美子、福圓美里から祝福のコメントが寄せられたという[41]。なお、生天目自身のプリキュアシリーズへの出演自体は、2004年の『ふたりはプリキュア』に中川弓子役で出演して以来である。 テレビ朝日系列のバラエティ番組『くりぃむクイズ ミラクル9』の出演の話が来た際、本人は事務所に対し出演に難色を示したが、マネージャーの説得もあって出演することになり、出演した際は「緊張はしたけど、他の出演者の方々がとても優しくて助けていただきました。本当に感謝です。」と自身のブログで綴っている[42]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
Webアニメ
ゲーム
ドラマCD
ラジオドラマ
オーディオドラマ
吹き替え映画
ドラマ
アニメ
その他
特撮
実写
ラジオ※はインターネット配信。
ラジオCD
DVD
ウェブテレビ
舞台・朗読劇
その他コンテンツ
ディスコグラフィシングル
アルバム
歌手参加楽曲
キャラクターソング
ボーカルアルバム1 Jump up, GIRLS!(7月17日)
その他参加楽曲
作詞
ライブ合同ライブ
脚注注釈
シリーズ一覧
出典
外部リンク
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