池田政恭
池田 政恭(いけだ まさゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。備中国生坂藩の(2人目の)5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。 略歴公式には4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩主池田治政が側室瀬川(柏原庸郷の娘)との間にもうけた庶長子である[1]。血統の上では、政弼と治政が共に池田綱政の曾孫という関係にある。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。子は池田政範(長男)、池田長貞(次男)、池田政徳(三男)。官位は従五位下・山城守。幼名は鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進。 池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された[1]。 生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、既に嫡男として届出ずみであった政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房)が満1歳(数え2歳)で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った[1]。安永8年(1779年)に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に11代将軍・徳川家斉に初御目見し、従五位下・山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。 文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。 系譜実際の両親と兄弟姉妹
届出上の両親と兄弟姉妹妻子脚注関連項目
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