池田政善
池田 政善(いけだ まさよし)は、江戸時代後期の大名。備中国鴨方藩の(2人目の)第8代藩主。内密で異母兄の池田政広とすり替わって家督を継いだが、公式には政広と政善は同一人物とされた。 略歴6代藩主・池田政養の四男として誕生した。母は側室の岩田氏[2]。幼名は虎吉、甚次郎。諱は初め政広、のち政敏、政善。 文政7年(1824年)、兄で先代藩主の池田政共が早世した際、その末期養子として跡を継いだ、というのが公式上の記録である(実情は後述する)。文政9年(1826年)1月28日に11代将軍徳川家斉に初御目見し、元服する[3]。同年5月には藩主として初めて岡山へ帰国し[3](鴨方藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)、翌文政10年(1827年)から諱を政善と名乗るようになった[3]。 弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日(1847年6月10日)、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に37歳(数え年)で死去したことになっている。 兄弟の入れ代わり政共が生前に仮養子に指名していたのは、嫡出の同母弟(母は池田宗家の池田治政の娘)の甚次郎(奄有)で、政共が急死した際には甚次郎が末期養子として跡を継いだ[4]。しかし、甚次郎は生来病弱で、家督相続に伴う諸行事もままならず、その都度名代を立てねばならない有様であった[5]。甚次郎が17歳になるまで待って、その上で新たな養嗣子に家督を継がせることも考えられたが、初御目見が無事に迎えられるかさえ危ぶまれた。そこで鴨方池田家では、文政8年5月1日(1825年6月16日)、甚次郎の6か月後に生まれた(生年は翌年のため数え年では1歳下になる)庶出の弟の虎吉を身代わりにして「甚次郎政広」を名乗らせ(のち政敏、政善と改名)、密かに家督相続者のすり替えを行った[6]。元の甚次郎は剃髪して池田栄を名乗ることになったが、こちらは「虎吉」であったことにされた[6]。栄は天保10年(1839年)に数え29歳で没した。 以上は「池田氏系譜」の記録による。『寛政重修諸家譜』や明治政府に提出した「家系・家譜」では、政共の跡を嫡出の同母弟の政善が継ぎ、栄(政徳、幼名・虎吉)は彼らの庶出の弟であったことになっている。 系譜脚注参考文献
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