池田政共
池田 政共(いけだ まさとも)は、江戸時代後期の大名。備中国鴨方藩の第7代藩主。 略歴第6代藩主・池田政養の次男[2]として誕生した。幼名は陽吉、勇吉。 文政2年(1819年)、父の死去により跡を継ぐ。文政7年(1824年)5月22日、国元へ向かう途上、摂津国郡山(現大阪府茨木市)にて19歳で死去した[2]。ただし、幕府には6月28日(1824年7月24日)死亡として届出された[2]。跡を同母弟の政広が一旦は継いだが、病弱なため内密に異母弟の政善にすり替わった[2]。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。 系譜脚注 |