水前寺成趣園水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は、熊本県熊本市中央区にある大名庭園。熊本藩主の細川氏により江戸時代に造営された。通称は水前寺公園[1]。面積約7万3000平方メートル。園内には築山やそれに続く平坦地があり、それぞれ富士山や東海道の景勝地を模しているという説がある[1]。 歴史『細川家文書』によると、熊本藩主としての細川氏では初代の細川忠利が寛永13年(1636年)11月に国分の御茶屋の作事を行ったのが始まりとされる(『肥後国志』では「水前寺」という禅寺があったとする)[2]。忠利の肥後入国時には、旧領の豊州耶馬渓の羅漢寺の僧・玄宅が随従しており、玄宅のために堂宇を建立し、これが「水前寺」と呼ばれるようになった(忠利公代水前寺御茶屋)[2][3]。しかし、『肥後国志』によると水前寺は寛文5年(1665年)ごろの第二世の斧山のときに廃寺となり、第一世の玄宅も豊州に帰ったため寺領と御茶屋は熊本藩により没収となった[2]。なお、この時に看司宗悦が熊本藩から水前寺の替地を賜り、禅定六世愚岑周賢和尚によって玄宅寺が開創され、玄宅禅師に由来する寺号をもつ曹洞宗寺院として継承されている[2][4]。 細川綱利の代になると新たな御茶屋を設けた大規模な作庭が行われ、細川家永青文庫蔵『御奉行所日記』によると寛文10年(1670年)から寛文11年(1671年)にかけて水前寺御普請が進められた(綱利公代水前寺御茶屋)[2]。完成した桃山式の回遊式庭園には、陶淵明の詩『帰去来辞』の一節「園日渉以成趣」から「成趣園」と名付けられた[1]。 江戸時代中期の『水前寺御茶屋図』では、安永5年(1776年)に完成した馬場が描かれており、「酔月亭」と呼ばれた御茶屋も描かれている[2]。 明治時代の廃藩置県後に官有となったが、1877年(明治10年)の西南戦争で御茶屋「酔月亭」は焼失し、園内も荒廃した[2]。官有地だったため当初はどうすることもできなかったが、旧藩士らの有志は払い下げを求めることとし、1878年(明治11年)に出水神社を園内に創建し、庭園を出水神社の社地として払い下げを受けることに成功した[2]。 1912年(大正元年)には酔月亭の跡地に「古今伝授の間」(後述)が移築された[2]。 1929年(昭和4年)12月17日には「水前寺成趣園」として、国の名勝および国の史跡に指定された。 園内
観光
交通アクセス
脚注
関連項目
外部リンク座標: 北緯32度47分27.93秒 東経130度44分4.54秒 / 北緯32.7910917度 東経130.7345944度 |