日近奥平家
日近奥平家(ひぢかおくだいらけ)は、奥平氏の傍系で老臣と成った七族の一つ。 歴史家祖・貞直は、宗家・奥平貞勝の弟である。本拠は日近城で、広祥院とも関わりが深い。日近合戦では戦いの中心であった。日近合戦の際は、今川方として襲来した東条松平家らを相手に、麻生松平家や大給松平家とともに戦った。 奥平貞直は近隣の雨山を領す阿知波定直を雨山奥平家として迎えるために尽力したことから、雨山奥平家とも関わりが深い。 2代・貞友の次女が嫁いだ久松松平定勝(徳川家康の異父弟)の下へ、貞友の弟・三郎兵衛貞政と息子・藤左衛門貞由まで転仕したため、奥平家での日近家の血統は断絶した。 以後は伊予松山藩にて、家老の奥平藤左衛門家として存続した。 土佐奥平氏土佐藩士として続いた小笠原唯八(牧野群馬)の先祖もこの一族の支流で、先祖・奥平貞政(左門、三郎兵衛)は、三河国出身で奥平氏嫡流の奥平定能(定能の逝去後は奥平信昌)に仕え、さらに慶長7年(1602年)本家を離れて松平定勝に仕えた。土佐藩の藩譜によれば、貞政は「松平」姓の使用を許され「若狭守」を名乗ったという。貞政の次男・奥平義政(図書)は、慶長10年4月17日(1605年6月3日)、山内忠義の正室が入輿の時、松平定勝(隠岐守)より阿姫(くまひめ)入輿に扈従し奥家老として土佐に赴任するよう命ぜられた[1]。この時、ゆえあって「奥平」姓を憚り「小笠原」姓を称した。義政は付家老として土佐藩より400石の知行を賜はる[1]。また阿姫はこの婚礼に際し徳川幕府より化粧料として豊後国玖珠郡内山田郷に1,000石を下されている[2]。義政は、寛永6年4月6日(1629年5月28日)病死[1]。嫡子が継ぎ、寛永9年2月13日(1632年4月2日)、阿姫[3]逝去の後、桑名藩主・松平隠岐守の旗下に戻り、松平隠岐守より知行400石を賜った[1]。その後、権左衛門が伊予松山藩で家督を相続、次男・重政は土佐藩に召抱えられた。三男・五郎兵衛は長兄と同じく松平隠岐守に召し抱えられ、四男・重次は土佐藩に召抱えられる[1]。土佐藩に召し抱えられた重政は「小笠原氏」を称し、重次は「牧野氏」を称した。小笠原唯八(牧野茂敬)は、系譜上はこの牧野家の第9代当主にあたるが、牧野家が途中で後嗣を欠き、小笠原家から養子を迎えて家を継承させたため、血統上は重政の子孫(6世孫)にあたる[1]。牧野姓の由来となった牧野家は三河国牛久保城主(現・愛知県豊橋市)で戦国時代末期に松平氏の家臣となった家柄である。 系譜日近奥平家
関連系図
(参考文献)『日近奥平系図』、『(土佐藩)御侍中先祖書系圖牒』、『土佐名家系譜』、『土佐の墓』、『板垣精神』、『板垣退助君戊辰戦略』、『日光東照宮と板垣退助』 脚注
参考文献関連項目 |
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