戦闘メカ ザブングル
『戦闘メカ ザブングル』(せんとうメカ ザブングル)は、1982年(昭和57年)2月6日から1983年(昭和58年)1月29日まで、名古屋テレビを制作局として、テレビ朝日系で毎週土曜17:30から18:00(JST)に全50話が放送された、日本サンライズ制作のロボットアニメである。英語表記は、Xabungle。日本サンライズ創立10周年[注 1]記念作品。 概要富野喜幸が名義を富野由悠季と改め、『伝説巨神イデオン』以来2年ぶりにテレビアニメの監督として復帰した作品である。かつて自身の出世作『機動戦士ガンダム』が放映されたのと同じ放送枠において、本作の後、『聖戦士ダンバイン』、『重戦機エルガイム』、『機動戦士Ζガンダム』、『機動戦士ガンダムΖΖ』まで1年もののテレビアニメとして連続5作品を送り出すことになる(さらに『ΖΖ』と並行して劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の制作も進めた)。 前番組『最強ロボ ダイオージャ』が放送開始した1981年の春には、リアルロボット作品として『機動戦士ガンダム』の評価が定まってきており、放送終了後に発売されたガンプラなど、関連商品が歴史的な大ヒットを記録していた。同年秋にはリアルロボット作品として同じサンライズ制作の高橋良輔監督による『太陽の牙ダグラム』のテレビ放送が始まり、このプラモデルの販売も好調だった。ただし、前例踏襲の熱血合体ロボ路線である『ダイオージャ』の後番組がリアル路線ではメインターゲットである低年齢視聴者の抵抗が大きいと判断され、本作はリアルさにおいて『ガンダム』『イデオン』のシリアスラインと『ダイオージャ』の中間をターゲットとしたアニメと企画されていた[1]。 当初は『エクスプロイター』という仮称で鈴木良武・吉川惣司監督を中心としたシリアスな宇宙もののロボットアニメ企画として進められており、準備設定画も存在している。吉川が多忙を理由に監督を辞し、代わりに富野が監督に抜擢されてからはキャラクターデザインなどを除いて一新され(富野もまた多忙で、劇場版『ガンダム』など複数の仕事を掛け持ちして追われていたため、デザイン変更までは追いつかなかった)、西部劇のような世界にガソリンエンジンで動き、自動車のようなハンドル(ステアリングホイール)とアクセルペダルで操縦する巨大ロボットウォーカーマシン(以下WM)が登場する、派手なロボットアクションを前面に出した作品となった。そうした設定は富野が一夜で考案し、その後も完成後のコンテや脚本を次々に書き換えてしまうことが相次ぎ(日常会話調のいわゆる「富野節」にセリフ回しや展開を改変してしまうことも含め)、特に脚本家である鈴木との間に確執が深まっていき(富野批判とも取れる後日談が雑誌インタビューなどに文面で残っている)、本作以降は同じ作品で仕事を共にする機会はなくなっている。 富野は登場人物が悲惨な結末となるいくつかの作品を以前に制作しており、「皆殺しの富野」の異名がファンサイドでも定着する始末であったため(シリアスや残酷な描写が青年層には受けても子供離れや玩具売上低迷に繋がることも多かったため)、低年齢層への訴求も重視している本作は「誰も死なない作品とする」との決定のもとに制作され、このコンセプトは翌年制作の『銀河漂流バイファム』にも受け継がれた[要出典]。実際には物語上で恨みや仇という関係を作るため、脇役やゲストに相応の死者を出している一方、物語に大きく関わる者は戦闘で敗者となる者でもほぼ死ぬことはなく、戦闘後に逃げ出す姿が描かれた。作品そのものは非常に明るいコメディタッチで描かれており、仇役であるティンプ・シャローンやキッド・ホーラといった敵役のキャラクターたちもどこか憎めないよう描かれている。そのようなコミカルな描写は、暗い作風でスポンサー企業からクレームが付いた『Ζ』の続編『ΖΖ』においても導入されている。 主人公・ジロンの顔はコンパスで描いたように丸くデザインされたため、作中でも「どマンジュウ」「メロン・アモス」などのあだ名で呼ばれている。このデザインについて湖川友謙は、後に発行されたムック内では「前々から暖めていたものであり、必ずしもコメディを意識して用意したものではない」と語っていたが、その後の研究本では「コメディを意識して」と発言している。全キャラクターについて瞳に共通した特徴があり、「虹彩のない単色の丸い瞳にハイライトの白線が斜めに1本入っている」のみの単純なデザイン(通称「ネジ目」)となっている。なお、企画段階ではキャラクターの服装は世界観にあわせて変遷したものの、顔は『エクスプロイター』の時から一貫して「ネジ目」だった。 本作では宮崎駿の作品が意識された。出渕裕によると、ジロンがジャンプして着地する際に足がしびれるなど、『未来少年コナン』からの影響が指摘されており、富野自身も『コナン』を模倣するところから始めたと証言しており[2]、『ルパン三世 カリオストロの城』をまねろとも指示している[3]。出渕は「富野さんの中ではやはり、宮崎さんがやっているものに対して一種の憧れというか、こういうのをやりたいっていうのがあったと思うんですよ」と語っている[4]、後年の『ガンダム Gのレコンギスタ』の放送終了後の雑誌コメントでは「自分は宮﨑駿のような天才にはとうとう及ばなかった」という趣旨を明言している。 本作は、単なるロボットアニメとは異なり、いくつもの新機軸と言えるアイディアを盛り込んでいた。その一つに「主人公メカのザブングルが物語の途中で破壊され、新型機のウォーカー・ギャリアに乗り換える」という、いわゆる主役機の交代劇がある。それまでにも「ゲッターロボからゲッターロボGへ」など、主人公が主役ロボットを乗り換える事例は存在したが、それらはあくまで物語の一旦完結を経た後継作品の中での出来事だった。物語の途中で、番組タイトルとなっている機体から別の名称を持つ機体への乗り換えは、当時のロボットアニメでは異例の出来事だった。これは本作品が宇宙劇から西部劇への変更により、主役メカのデザインがどうしても世界観に馴染まないため[注 2]に行なわれた措置だった。結果的に、このような主役機途中乗り換えの商品展開は翌年以降の後番組の作品でも流用され、現代に至るまで引き継がれている。 なお、ザブングルは当初から2機が登場し、もう1機は他のキャラクター(主にエルチ・カーゴ、ラグ・ウラロ)が使用して最後まで活躍した[注 3]。提供スポンサーのクローバーによると、2機のザブングルは合体する予定だったという[5][要ページ番号]。番組後半はこの合体したザブングルの商品が投入される予定だったが、代わりに前述のギャリアが発売された。しかし、ギャリアの玩具の売上が芳しくなく、富野はスポンサーから苦言を呈されることになった。ギャリアは富野自身がデザインに注文を付けた形で商品化されていたために追求の対象となり、ギャリアの1/100スケール プラモデルはシリーズ全体の売上低下が理由となって商品化が中止された。提供スポンサーのバンダイの会報誌には苦情が殺到し、ギャリアに関する投稿が続くなど混乱した(詳細はウォーカー・ギャリアを参照)。 ザブングルとギャリアを合成して再設計した新型WM・ブラッカリィが敵側の戦力として登場し、ザブングルやギャリアを苦戦させるという展開が見られる。さらに、主人公たちの乗艦である大型母艦アイアン・ギアーは同型艦が二度に渡って登場し、1隻目のグレタ・ガリーとの戦闘では大破したアイアン・ギアーを捨てて乗り換え、2隻目のギア・ギアとは双方巨大WMに変形しての格闘戦を繰り広げている。 『ガンダム』では、人型のロボットが登場するためのSF的な理由付けが設定されていた。本作にもその理由付け設定があり、「破壊された地球から逃げ出した人々(イノセント)の“再び二本の足で大地を踏みしめたい”という願い」から生まれたことになっている[6]。 製作企画原作も担当した脚本家の鈴木良武によると、当初は人工衛星を舞台に、地球人の落ちこぼれ達が宇宙移民を目指す話で、敵の襲来で衛星の住民達が逃げ出した後、落ちこぼれだけが残って戦うロボット物だったという。鈴木の知人関係から吉川惣司が監督として呼ばれたものの、ロボット物とは肌が合わず、議論も噛み合わなかったために、後任として富野由悠季が呼ばれ、複数の企画書を整理して本作に纏められた[7]。 企画書では、「落ちこぼれの復権」「人間性の賛歌」が狙いとして挙げられ、作品の路線は上記にもある通り、『ガンダム』『イデオン』のシリアスと『無敵ロボ トライダーG7』『ダイオージャ』のギャグの中間であるユーモア・アクションと銘打った「惑星西部劇」であるとしている[8]。 宇宙モノを前提とした企画の時点で主役メカ(後のアイアン・ギアー)のデザインは決められており、同様の企画が他社で進行中と判明したことで、西部劇のコンセプトに改められた。西部劇は荒野が舞台になるイメージから、全てが荒野化した惑星ゾラが設定され、企画当時に騒がれていた石油枯渇問題という時事ネタを採り入れ、富野監督によってガソリンで動く設定が考案された。そして四輪車が合体変形する新たな主役メカ(ザブングル)が考案された[9]。 制作本作のスタイルは、打合せに同席した設定制作がデザイナーに脚本を届ける際、話数に必須な設定を伝え、それを基に必要と判断したデザインを上げる方式が採用され、美術とメカニカル、双方のデザイナーが互いを補完し合うことが多かった[10]。 監督の富野由悠季が本作の作業に関わるのは、放送予定4~5カ月前というタイミングで、この時点で、主役メカであるザブングル以外のWMのデザインも、作業は既に開始されていた。主役機以外のメカコンセプトは、高年齢層を意識したリアルな兵器として、主役機は『トライダーG7』や『ダイオージャ』の延長線として、低年齢層向けにデザインされた[6]。 プロデューサーの中川宏徳は、本作で初めて富野由悠季と関わったが、監督交代の余波や、設定や基礎部分を煮詰める作業で、スケジュールの全体に大きなしわ寄せが生じ、その対処に追われることになった。また絵コンテを1つを切る際も、監督の富野から担当者たちに、そのまま脚本から絵を起こすのではなく、話の奥底に隠されたものを見出す探求心を要求され、結果、本作終了後の第2スタジオの雰囲気は大幅に変わることになった[11]。 設定担当として、キャラクターデザインと美術設定の制作スケジュール管理を行った川瀬敏文によると、当時は全てがアナログ作業で勝手が行かず、富野監督の指示もラフの状態で正式案ではなく、ケースバイケースの判断が求められた。ウォーカーマシンについても、関係者全員が顔を揃えた話し合いは2回しか出来ない程スケジュールは逼迫しており、アニメーター達はウォーカーマシンの特徴を捉えるのに苦心していたという[12][13]。 キャラクターデザインを担当した湖川友謙は、『伝説巨神イデオン』とは真逆の、柔らかな動きを重視した作品像を目指したものの、第1話は原画が多すぎて意図を伝達できず、スケジュールを確保できずに2話~26話まで一切の関与ができなかったため、27話以降は関与できなかった前半部分の手法がそのまま作画に反映されることになった[14]。 撮影監督を担当した斉藤秋男は、撮影という仕事は、本来は内容に感知しないものであると断った上で、「動画を入れてもカメラ操作で動かさねばならない部分があった」「中コマヌキも多く、迷うことも随分あった」「OPやEDでは、同じものを何回もキレイに使用しなくてはならず、神経を使った」と本作のイレギュラーぶりを語って、全体的にキツイ仕事だったことを明かしているが、反面、コミュニケーションを密にする必要性から、担当者同士の考えやギャップの解消に恵まれ、勉強する機会を得た作品と位置付けている[13]。 美術担当した池田繁美(当時スタジオ・ユニ所属)は、前番組の『ダイオージャ』(中盤から参加)に引き続いての担当だったが、冨野監督の制作入りが遅れ、顔を合わせての打ち合わせは1、2回しかなかった。舞台となる「惑星ゾラ」について、「海水面を300m下げた地球」というコンセプトが監督から提案され、池田はそれに基づいた地球図を作成し、ギラギラした米国西部の植生を参考に植物のデザインなども行った。打ち合わせの際、富野は美術設定に細かく気を配り、殊更ウソに見える描写を嫌った。そのため池田は1話辺り4~5枚の美術ボードを描く際、生活感のある質感を心掛けたが、富野の描くイメージに肉薄できない部分もあり、「ハナワンの泥の海」の設定については、池田がイメージを掴めず、地面と混同して描いてしまうこともあった[15][13]。 デザインゲストメカの大部分は、富野監督のラフを基に出渕裕がクリンナップを描き起こしたが[13]、美術担当の池田繁美が描いたイノセント側の建造物や室内様式に触発された武器や装備品も存在する。また第15話に登場した「ハナワン族」や彼らが住む「マッドシー」のように、脚本主導で設定されたものもあり、それらの多くは設定制作の風間洋が演出に依頼されてデザインしている。また本作の銃器類は矢木正之が全話担当している[14][16]。 作画監督の坂本三郎は、キャラクターデザインに関して、「丸顔と言うけど、変わっているのは主人公の輪郭だけで、後はリアルな絵です」と指摘している[14]。 作画作画監督の佐々門信芳は、主人公のデザインが丸顔中心で、作画監督各々の手癖は発生しないと考えていたが、作業に入るとシンプル故の難しさが露見し、佐々門自身も第1話と2話で、主人公の目の高さを取り違えるなどのミスが発生した。しかし、その他のキャラクターは適度にエッジやデコレーションが施され、描き易かったという[14]。 作画監督の篠田章も、自身がギャグ好きのため、仕事自体には抵抗がなかったとしながらも、主役の顔の描画には苦心し、「一見簡単そうな顔ですが、表情づくりが難しい。目の配置1つ微妙に違っただけでも、変な顔になってしまう」と、その苦労を語っている[14]。 第27話で作監デビューした遠藤英一は、「これだけ好き勝手できた作品も珍しい」「内輪のギャグが多い作品」として、出来上がったラッシュが自身の手癖が強く出過ぎて、作画監督という責任をとる立場から「これで良いのか、このまま放送して良いのだろうか」と自問したことを明かして、トロン・ミランとジロンの喧嘩場面は無理を言って描いたものの、やり足りなかったと述懐している[14]。 作画監督の坂本三郎は、当初聞いたあらすじからギャグ物と想定していなかったが、回を追うごとにギャグ物でなければ使用しない「中ヌキ」や「中ナシ」を多用するようになったことに触れて、「面白いなと思いましたが、全部上手く行ったとは言えない。やり過ぎた所もありますね」として、偶然にも『伝説巨神イデオン』と同じく最終回の作監を担当したことも踏まえた上で、「制作状況は毎度変わらず、特別に力を入れる時間もない。それでも最初と最後はきちんとしなければならないからシンドイ。もっと時間が欲しかった」と語っている[14]。 作画監督の山田政妃は、それまでのアニメとはスピード感が異なり、タイミングを掴むのに最後まで苦労したとして、「従来は3コマ撮りが普通。ザブングルでは1~3コマが不規則に入り組んでタイミングが速い」と指摘した上で、特定の個人が速さを求めたわけではなく、1話終わる毎に図らずも速さを求めた結果だとして、作画マンの多種多様な個性の集まりが本作の特色であると述べている[17]。 アニメーターの矢木正之は、登場人物の1人であるトロン・ミランを例に挙げて、「湖川キャラにしては描き易い方だったが、髪の毛が決めにくくて、動画の時に振り向かせるシーンは困りましたね」と語り、同様に主人公も「ボールに顔を描いたみたいになっちゃう」と、その描きにくさに言及している[17]。 評価吉川惣司に替わって監督を務めた富野由悠季は、「スケジュール的に見てニコニコやれる状態じゃない。正直言って初めは嫌々でした」と振り返り、『ガンダム』『イデオン』とシリアスな作風を連作した反動から、「肩肘張って作るばかりがアニメじゃない。遊んでみる気持ちがあっても良いんじゃないか」との思いから、本作は、自らの思想や理念、主張を一切行わずに仕事を成立させる実験台にしようという気持ちがあったとしながら、「点数をつけるとしたら30点が良いとこです。ストーリーが破綻しちゃって、構想論から見たら完全な失敗作です。ホント、粗だらけ」と厳しい評価を下している。しかし実験台としては大正解だったとして、「アニメの本道は『ザブングル』のようであるべきだ。僕は確信を持って結論に達しました」とコメントしている。また本作のような、監督の気持ちを一歩引いたアニメの制作には、予想を上回る作画と演出が必要だったと述懐し、絵コンテはストーリー性のある作品の3倍の手間が必要となり、動画の中割り指定までコンテに描き込まないといけなかったことを明かして、「アニメーターには極度に嫌われました」と語っている。そして制作過程については、『ガンダム』と『イデオン』に専念して手が回らなかった最初の1クール半は「絵とか動きが重い」と指摘し、その後、第2スタジオのアニメーターたちが、『超電磁マシーン ボルテスV』で身につけたノウハウに囚われ、本作の作画に慣れていないと感じ、2クールを過ぎても改善されなかったことから、当初の方針を転換、積極的な現場介入を行い、「『ダイオージャ』までのアニメで表現できると思っちゃ困る」「あなたの覚えてるアニメの仕方は皆ウソ」「総監督の僕のいうことを聞け」とパワハラに等しい発言を行って現場が険悪になり、「何人のアニメーターが辞め、何人の演出家が逃げ出すだろう」と当時の心境を明かした上で、3クール目からスタッフとの意思疎通が図られ、「走り出した」手応えを掴んだと証言している。本作を通じて富野は、「キャラクターを自由に動かすには、最低限の足場だけで良い」として、「アイアンギアーという1つの社会だけで良かった。ソルトみたいなのを作ってしまったのは姑息でしたね」と反省を述べ、この作品で本当に描かなければいけなかったのは「ジロン、エルチ、ラグたちが最後まで物語を走り切れるか否かの部分だった」として、方向性を掴んだのが物語の終盤近くだったが、その頃にはスタッフも楽屋落ちをやる余裕が生まれ、本来なら嫌いな楽屋落ちも、本作に関しては余裕の産物で気に入っていると述べている[18]。 原作を務め、五武冬史名義で脚本にも参加した鈴木良武は、「ギャグ物だけど、裏にシリアスな世界がある」として、それを踏まえてのギャグ表現を富野監督が色々考えてくれたとフォローした上で、「企画の根本である『ロボット物のギャグ』は一貫して活かされている」「(富野監督は)ギャグをどう描くか大変だったと思う」とその労をねぎらい、肩肘を張らず、リラックスして見られる作品であると述べている[7]。 演出を担当した加瀬充子は、「コンテが2本しか切れなかったのは残念」としながら、富野監督が想定する範疇で自由にやらせて貰った楽しい仕事だった述べ、本作は、全てのキャラクターが主人公であり、彼らが成長することで生きるパワーが感じられる作品だったと振り返り、無法な世界で主人公が自分の意思で生きるのが人間的で、普通なら感情を抑える所を出すことで、他のキャラクター達に新たな感情が芽生える流れが一番好きであるとして、「シリアス、ギャグ、全て含めて『ザブングル』」「結局、わたしは人間が好きなんですね」とコメントしている[7]。 演出を担当した関田修は、ギャグを貫いた作品の仕事は初体験で、「ギャグのタイミングの取り方が勉強になった」と、演出家としての成長の転機だった作品と振り返り、ギャグとシリアスとの徹底した振れ幅が本作の魅力で、主人公も当時主流だったヒーロー像から程遠く、親近感を持ったキャラクターだったと評価した上で、「仕事をしてい後味も良く、最初の印象も良い作品なんて、そうあるものじゃありません」と好意的なコメントを寄せている[7]。 演出を担当した鈴木行は「型に嵌らない作品」と評し、「合体」の一言で済ませる従来のプロセスを逆手に、細かいディティールで見せているとして、「楽しく、自然にキャラの動きが浮かんできた」との感想を述べている。一方で制作当時の反省点として、「中コマヌキ」を多用し過ぎたことを挙げ、メリハリが必要だったとしている。そして自身は戦闘シーンが苦手で、38話以降のアイアンギアーとイノセントの戦いは辛い仕事だったと明かして、「作品は好みだったんですが、富野(監督の)感覚を掴むまでは、かなり肩を張ってましたね」とコメントしている[7]。 演出を担当した菊池仁は、「考える間もなく入り込めた」と当時を振り返り、「ザブングルは動きのアニメ」と評し、演出の融通が利く反面、ギャグで破目を外さないよう注意し、ギャグのテイストを掴むのが一番苦労したと語っている。また、担当したエピソードについては46話を挙げて、「盛り上がりを作るための途中経過な仕事が多く、ドラマ的変化に乏しかった。トロン・ミランみたいな劇的な話がやりたかった」と、無念さを滲ませたコメントを寄せている[11]。 脚本を担当した荒木芳久は、「何を考えているか掴みにくい作品だった」と述懐し、登場人物が多く、各々にスポットが当たる等して展開が分からず、「演出の方々は苦労したと思う」と労った上で、スタッフ達が制作に慣れて来た中盤以降が、自然な感情や本音を表現できていて面白いとして、「ザブングルは見る側によって自由に捉えて貰えるごった煮のような作品」と評している。また、自身が手掛けた脚本回では、ハナワン族の話が一番気に入っていると述べている[11]。 脚本を担当した伊東恒久は、西部劇のイメージで1年間手探りで参加し、打合せでは世相の事ばかりで脚本の話を殆どせず、それが当時の日本の政治体制を反映させたイノセントの設定に繋がったと述懐して、当時のテンプレでないラグやエルチのような生々しい女性キャラを執筆できたことが一番気に入っていると述べ、「アニメで芝居を描いた今回の作品はしんどかった」とコメントしている。また、当初は金太郎のような主役のデザインに違和感があったが、マスコットキャラのチルの存在がそれを緩和させていると指摘している[11]。 アニメーターの山田城次は、「何時まで経っても終わらない。物量的に大変な作品だった」と語り、自身が今まで習得した技法で描くことができた反面、新しい技法を習得できなかったことが不満だったと述べつつ、「富野さんから、道は他人に聞くものじゃない。自分で造るものだって叱られるだろうけど」と断りを入れている[19]。 作画監督を担当した金山明博は、本作では、富野由悠季が意図的にストーリーの発展性を無くし、過程を細かく描くことに注力しているとして、3~4話を通して視聴しないと、その発展性が見えて来ないことを指摘して、その上で「自分としては、兎に角、動かすことに専念した。富野さんの術中に嵌って走らされた感じかなぁ」との感想を述べている[13]。 主役であるジロン・アモスを演じた小滝進は、ジロンというキャラクターについて、「考えるより先に体で表現する男」と評し、表現が単純でストレートなため、大人である自身では却って感情が捉えにくい部分があったとして、特に不器用であるジロンの性格を考慮して、言葉遊びを台詞に挟む際は、自身のためらいもあって多少は演じる苦労があったとしながら、『ザブングル』の世界観が、行動すれば何かの形で跳ね返る、打てば響く世界であるため、掛け声をほぼアドリブで行う等、それなりにエンジョイさせてもらったと語っている。また印象に残った場面として、「敵側に走るラグを泣きながらジロンが殴る場面」「理解者であるアーサーの死」「失明したエルチに見せるジロンの優しさ」を挙げ、中でも最終回の、殺伐とした状況から愛情の生まれる余裕の切り替えのラストシーンについて、演じる難しさを感じながらも、やりがいのある場面であったと述懐している[20]。 エルチ・カーゴを演じた横尾まりは、従来の冨野作品と比べ、明るく皆が楽しんでやっている雰囲気が、演じる側にも伝わる作品だったとして、話のテンポがとても速く、台詞の出だしが他の仕事でも速くなるほどであったという。自身が演じたエルチについては、演出担当者によって解釈が異なり、自分なりに構築していたエルチ像と食い違うこともあったとした上で、「気が強くプライドが高い。でも文化を目指す直向きな一途さや、彼女らしい我儘が大好きでした」と語り、それだけに、洗脳されて主人公側と対抗した際は、演じていてとても辛く、早く皆の元に帰りたい気持ちで一杯だったと明かしている[20]。 ラグ・ウラロを演じた島津冴子は、「声優が役に成りきった時点で思い浮かべる台詞と、設定されていた台詞との接点が、かなり密着した作品だった」「言葉のテンポも類なくスピードがある」「私が今でやってきたアニメ、もしくは観てきたアニメとは全く異なった世界で、新鮮な気持ちを感じさせてもらった仕事です」との感想を述べ、自身が演じたラグについては、ヒロインの1人だったエルチと比較して、「ランドサットの首領として皆を率いて来たために、身につけた責任感とツッパリが、エルチやジロンほどストレートな表現の出来ないキャラにしてしまった」と分析し、誰かと対立した際に 体でぶつからず、一歩引いてしまう所に可愛さを感じ、ラグ、ジロン、エルチが絡む場面は、役にのめり込んで演じる程に面白かったと述懐している。その上で、最終回の結末を聞かされた時はショックで、ラグにとって、もっと寂しい終末だったにも拘らず、キスで気持ちを切り替えた彼女に「拍手を送りたい気持ちで一杯です」と結んでいる[21]。 ストーリーかつて地球と呼ばれた惑星ゾラはどこまでも砂漠が広がる星となっていた。「イノセント」と呼ばれる支配階級の人々がドーム都市に住み、「シビリアン」と呼ばれる庶民階級の人々がその外に住んでいた。シビリアンたちは、ロックマン(ブルーストーン採掘業者)、ブレーカー、運び屋、交易商人などを営んで生活していた。 ゾラには「泥棒、殺人を含むあらゆる犯罪は三日逃げ切れば全て免罪」という「3日限りの掟」が存在した。しかし、シビリアンの少年ジロン・アモスは両親を殺したブレーカーのティンプ・シャローンを、掟の三日を過ぎても追いかけ続けていた。ジロンは目的を果たすために戦闘用ウォーカーマシン「ザブングル」を手に入れようとするが失敗し、その持ち主である交易商人「キャリング一家」のお嬢様エルチ・カーゴや無法者集団「サンドラット」の女リーダーであるラグ・ウラロたちとランドシップ「アイアン・ギアー」に乗り込み、行動を共にすることになる。アイアン・ギアーの派手な活動はやがてイノセントにも注目されるようになる。やがてアイアン・ギアーのクルーたちは反イノセント組織「ソルト」と合流していく。 「イノセント」の本来の支配者である貴公子アーサー・ランクはジロンたちに共感し、真実を告げる。「シビリアン」とは、将来的に地球(ゾラ)を託すために「イノセント」によって人工的に創りだされた種族であった。大異変により環境が激変し、それまでの地球人の体のままでは生存できなくなってしまったのだ。「イノセント」たちは「シビリアン」を穏健に支配育成し、いずれはゾラを譲るつもりだった。しかし、対立する「イノセント」の大物カシム・キングはこの計画を反故にし、「シビリアン」を支配し続けようとしていた。 カシム・キング一派はエルチを拉致して洗脳し、アーサーやジロンたちを抹殺させようとする。ジロンたちは何とかエルチを救い出し、アーサーの助力を得て洗脳を解く。シビリアンたちはあちこちで暴動を起こしてキングの勢力に対抗し、これを圧倒するに至る。窮地に陥ったカシムはICBMで反撃しようとするが、その誘爆で死亡する。しかしこの過程でエルチは負傷し失明してしまう。シビリアン側の勝利が確定した後、エルチは洗脳の所為とはいえ仲間を裏切った罪悪感から荒野に独りザブングルを駆り飛び出すが、迎えに来たジロンの呼びかけに応え、仲間と共に生きていくことを決意する。 登場人物→「戦闘メカ ザブングルの登場人物」を参照
登場メカ登場キャラクターは古今東西の様々な銃器を使用する。例えば、ジロンは「ボーマーサイトを装備したカスタムタイプのブローニング・ハイパワー」、ティンプは「コルト・ピースメーカーを二挺拳銃で」など。これらはオリジナルではなく、イノセントがコピーして製造し、シビリアンに支給したものである。WMやLSに装備されている火器も同様で、特に12.7mmM2重機関銃と20mmFlak38対空機関砲は多用されている。 移動手段は基本的に車輪、ホバークラフト、歩行(WM)のいずれか。砂漠などの不整地が多いため、車輪は少数派である。飛行機械はほとんど存在しないが、実在する爆撃機フライング・ガン・シップ「ミッチェル」(ノースアメリカンB-25J爆撃機)などが登場する。外観はオリジナルの通りで米軍のマーキングまで再現されているが、イノセントがドームの外に出る際の移動手段として使用されている。機内はドーム内と同様に彼らの生命が保たれるようになっており、内装も作り変えられている。最終回で飛行機だけでなく、飛行船や気球等ドームから逃げ出すイノセントたちが乗る機体が大量に登場している。
用語
→「惑星ゾラ」を参照
スタッフ(オープニングクレジットより)
主題歌・挿入歌下記各曲を収録したEPレコードの発売元は、いずれもキングレコード。 →「疾風ザブングル/乾いた大地」を参照
各話リストサブタイトル、脚本、演出、作画監督の出典→[22]
放送局
関西での放送について第27話「うたえ! 戦士の歌を」は、本放送当時の関西地方では未放送となった。 夏の高校野球(全国高等学校野球選手権大会)主催局である朝日放送の中継延長のため第27話(8月13日放送予定)の放送は休止となり、代替放送も行われなかった。 『無敵鋼人ダイターン3』から『勇者王ガオガイガー』まで続く朝日放送での金曜日夕方のサンライズ作品放送枠は、高校野球中継の影響により代替放送されることが多く、また初期(『ガンダム』や『ザブングル』等)は次回予告編の放送もカットされる事例が見られたが、代替放送も行われなかったのは、本作品のみである。 このような放送状況から映画『ザブングル グラフィティ』では、トロン・ミラン登場時に、「幻のトロン・ミラン(関西地区で)」とのテロップが表記された。 本放送から35年後の2017年10月2日深夜(3日早朝)のサンテレビにおいて第27話「うたえ! 戦士の歌を」が関西地方の地上波放送局での初放送が行われた。 映像ソフト
関連作品ザブングル グラフィティ1983年7月9日に公開された、テレビ版を編集して新作カットを加えた劇場版。配給:松竹、スタンダードサイズ、映倫番号:111114。併映は高橋良輔監督の『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』、『チョロQダグラム』。 当初から併映前提で制作され、上映時間が90分以内という制約があったため、主要な物語を詰め込む総集編とせず、楽屋落ちを織り込んだ回想形式の作品となった。セル塗りを途中で止め、あえて動画を直接撮影したシーンに、「これが動撮だ! 間に合わないとこうなっちゃう」とテロップが入れられた部分があった。 ラストはエルチとジロンを中心に皆が走る所までは一緒だが、死亡したと思われたアーサー・ランクが登場し、失明したエルチに対して治療を申し出るというものになっている。この改変について、富野は「誰も死なない作品」とするとの決定の元に制作されたこともあり、「TV版でのアーサーの死とエルチの失明が作品全体のムードに対して、後味の悪い物として、心に引っかかっていたため」とコメントしている。 劇場版スタッフ
劇場版主題歌
その他
漫画
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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