御坊町 (高松市)

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御坊町

ごぼうまち
地図
日本
都道府県 香川県
市町村 高松市
地区(上位) 本庁地区
地区(下位) 高松
新設 江戸時代
面積
 • 合計 0.029393634 km2
最高標高
2.1 m
最低標高
1.5 m
人口
 • 合計 72人
 • 密度 2,400人/km2
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
760-0044
市外局番 087
ナンバープレート 高松

御坊町(ごぼうまち)は、香川県高松市中心部の町丁郵便番号は760-0044。住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されていない[2]

地理

高松市役所より0.5km、高松市中心部の都心に位置し、市道三番町築地線と市道今新町1号線を挟んだ北側と南側を町域とする東西に長い両側町である。その西は丸亀町市道丸亀町栗林線高松中央商店街)、東は塩屋町県道160号高松港栗林公園線に面した建物のそれぞれ裏手にあたる町である。また東西に長い当町を分断する形でライオン通りフェリー通りことでん琴平線の鉄道敷が交差しており、それぞれを境に町内の様相が異なる。全域にわたって寺院の敷地が多くを占めている他は、市道三番町築地線沿いのことでん琴平線以西が繁華街飲食店街を形成し、その以東および市道今新町1号線沿いが住宅街を形成している。ことでん琴平線の鉄道敷が町内を貫通しているものの鉄道駅は存在せず、同線の片原町駅瓦町駅の中間に位置する。

2020年国勢調査による人口は72人(男36人/女36人)、世帯数は29世帯、面積は2万9393.634m2、人口密度は2449.51人/km2[1]。公立小学校中学校校区は全域が高松第一小学校・中学校(小中一貫)に属している[3]

町内における都市計画法に基づく用途地域は全域が商業地域で、容積率はことでん琴平線以西が500%、以東が400%である[4]

北で今新町、東で塩屋町、南で福田町古馬場町、西で丸亀町に隣接している。

歴史

町名の由来は、近辺に寺院が多く立地し、中でも町内の興正寺別院が「御坊」と呼ばれていたことによる[5]

高松城下の一町として成立したとみられ、寛永17年(1640年)の高松城下絵図に記されたのが初見である。町名の由来通り寺院が多く立地し、興正寺別院、勝法寺、無量寿院、徳法寺、西福寺、願船寺があった。高松城下では寺町(後の三番丁)と同じく、高松城の南方向における防衛線を成していた[6]

明治5年6月(1872年7月)、香川県南西部に偏在していた香川県立学校に代わって町内に私塾私立協校が設立され、県学と同じ漢学、洋学、習字などが教えられたが、経費等の理由で2か月後に廃校となる[7][8]1876年(明治9年)3月20日第5軍管徴兵官が来高し、4日間にわたって町内の勝法寺で徴兵検査が行われ、合格者は高松営所に入営させられた[9]1890年(明治23年)2月15日にはそれまでの高松城下市制を適用して高松市が成立し、御坊町もその一部となった。1906年(明治39年)12月、御坊町1番地~2番地[注釈 1]の区域を今新町に編入し[10]1915年(大正4年)6月1日には隣接する七十間町の全域を当町に編入している[11][6]

1945年(昭和20年)7月4日未明、高松空襲によって町域の100%を焼失した[12]。この時点で江戸時代から数百年残っていた各寺院の伽藍は全て焼失している[13]1948年(昭和23年)2月18日には戦災で破壊された市内線の代替としてことでん琴平線(通称築港線)が当町を横切る形で開通した[14]。空襲で壊滅的な被害を受けた高松市中心部では、大部分で土地区画整理事業戦災復興土地区画整理事業)が計画され、1946年(昭和21年)6月5日戦災復興院告示第39号によって当町でも全域が区画整理の対象となることが決定した[15]。この区画整理ではことでん琴平線の鉄道敷以西が第一工区一次、それ以東が第一工区二次として工区分けされ、当町の目抜き通りの市道三番町築地線が拡幅の上、ライオン通り~丸亀町間を新設した他、当町を横切る路地も拡幅の上、フェリー通りとして新たに目抜き通りとなった。区画整理事業に伴う換地処分公告は第一工区一次が1958年(昭和33年)7月10日、第一工区二次が1964年(昭和39年)1月25日である[16]。換地処分の効力により当日をもって従前の地番が廃止され、その翌日から新たな地番が振られたこと(地番整理)で町域も変わり、第一工区一次分では当町の一部を今新町へ編入し、北古馬場町北部および南鍛冶屋町福田町の各一部を当町に編入、第一工区二次分では当町の一部を塩屋町へ編入し、福田町、野方町、今新町、塩屋町の各一部を当町に編入している[5]

七十間町

七十間町(ななじっけんまち)は、かつて存在した高松市の町丁。町名の由来は、町域に70軒の家があったからとされる[17]

江戸時代に高松城下の町名として起こり、1890年(明治23年)2月15日の高松市発足時には高松市の町丁になったが、1915年(大正4年)6月1日に廃止され、全域が御坊町に編入された[11][6]。高松城下を描いた絵図では寛政元年(1789年)以降からこの町名が記されており、御坊町の無量寿院も当町に属していたとする文献もある[18]

人口推移

  • 1995年:総数190人(男88人/女102人)、77世帯[19]
  • 2000年:総数175人(男80人/女95人)、70世帯[20]
  • 2005年:総数122人(男52人/女70人)、56世帯[21]
  • 2010年:総数112人(男50人/女62人)、52世帯[22]
  • 2015年:総数77人(男39人/女38人)、31世帯[23]
  • 2020年:総数72人(男36人/女36人)、29世帯[1]

主要施設

脚注

注釈

  1. ^ 1958年以前の地番
  2. ^ a b c d e 1958年(昭和33年)7月10日以前の所在地名は北古馬場町だったが、その翌日をもって現所在地名に変更。
  3. ^ 福善寺は真宗大谷派の寺院。山号は無漏山修摩提院。高松空襲以前の寺域は463坪余(1530.6m3)、本堂は8間×8間(14.6m×14.6m)[24]。初代高松市役所はこの本堂を間借りして置かれた[25]
  4. ^ 圓重寺は真宗大谷派の寺院。山号は西向山。高松空襲以前の寺域は105坪余(347.1m3)、本堂は4間×4間(7.3m×7.3m)[24]。隣接する福善寺の末寺の一つだったが後に独立する[27]
  5. ^ 安楽寺は真宗大谷派の寺院。高松空襲以前の寺域は73坪余(241.3m3)、本堂は4間×6間(7.3m×10.9m)。開基の正西は禅家から転じて東本願寺末となり、正保4年(1647年)香川郡御厩村(現高松市御厩町)に一宇を建て安楽寺と称した。寛永年間(1624年1644年)に三代目良巌の代で現在地に移る[24]
  6. ^ 極楽寺は真宗大谷派の寺院。山号は寿光山。高松空襲以前の寺域は252坪余(833.1m3)、本堂は6間×7間(10.9m×12.7m)。当初は浄土真宗に属し正覚寺と称したが、慶長3年(1598年沙門了誓が真宗大谷派に改め、隣接する福善寺の末寺となったが後に独立する[27]。門の色瓦は天保時代において東讃地方の名物に数えられた[24]
  7. ^ 本覚寺は本門法華宗の寺院。山号は真如山。高松空襲以前の寺域は455坪余(1504.1m3)、本堂は7間×7間(12.7m×12.7m)、鬼子母神堂は2間×3間(3.6m×5.5m)[28]慶長10年(1605年)、生駒家家臣の佐藤掃部が建立したが[27]、その後高松市新田町字山下甲1331番地へ移転した。
  8. ^ 興正寺別院は真宗興正寺派の寺院。古御坊と俗称され、当町名の由来になった。高松空襲以前の寺域は1744坪余(5765.3m3)、本堂は15間×15間(27.3m×27.3m)。堀彦左衛門親政が京都本願寺の徒弟となって乗栄と改名し勝法寺を草創する[29]天文5年(1536年)、戦国武将三好実休興正寺第十六世證秀に命じ、当時大和国(現奈良県吉野にあった勝法寺を箆原郷野方(後の野方町)に移し、阿讃両戦総録所とした[30]。その後実休は御坊川付近に寺地と田園を寄進したが、永禄5年(1562年)に和泉国岸和田久米田の戦いによって戦死しそれによって寺も退廃した。その後天正11年(1583年)に十河存保が池戸郷四角寺原(現・木田郡三木町大字池戸字四角寺付近)に再興し、天正17年11月(1589年12月)には生駒親正が香東郡楠川原(現楠上町付近)に寺領150石を寄進している。慶長19年(1614年)、生駒正俊が当町に移して興正寺別院(自庵御坊)と改めた[31]寛文2年(1662年)には松平頼重が香川郡福岡村(現高松市上福岡町)にて更に寺領150石を寄進したほか、北隣に勝法寺を再興し当院を守護させている[18]
  9. ^ 勝法寺は真宗興正寺派の寺院。山号は円頓山。高松空襲以前の寺域は641坪余(2119.01m3)、本堂は6間×9間(10.9m×16.3m)。寛文2年(1662年松平頼重が学友堀秀政の次男に僧乗恵を招かせて住職とし、興正寺別院の北隣に勝法寺を再興し同院を守護させた。以降、永代録所として領内興正寺派の住職の任免、訴訟、裁断並びに旅行認可等を所轄させたが、1878年(明治11年)に本山の懇望により録所と当寺を分離し、別に本堂を北隣に建築した[30]
  10. ^ 願船寺は真宗興正寺派の寺院。山号は梅林山。高松空襲以前の寺域は101坪余(333.9m3)、本堂は4間×5間(7.3m×9.1m)[32]天文19年(1550年)に沙門清順が草創し、現木田郡三木町大字池戸で梅林山香蓮寺と称した。当初真言宗であったが、後に勝法寺に帰依して真宗に改め当地に移った[18]
  11. ^ 西福寺は真宗興正寺派の寺院。高松空襲以前の寺域は250坪余(826.4m3)、本堂は7間×7間(12.7m×12.7m)。享禄4年(1531年)に河野通義伊予国(現愛媛県)より坂田(鷺田村)に来訪した際、その玄孫通元の弟が僧となり当寺を建立した。その後太田村の福岡(現上福岡町)に移り、その後当地に移転した[32]文政年間(1818年1831年)に焼失したが、天保15年(1844年)に再興した[18]
  12. ^ 無量寿院は真言宗御室派の寺院。山号は紫山随願寺。高松空襲以前の寺域は621坪余(2052.9m3)、護摩堂は3間×4間(5.5m×7.3m)、聖天堂は4間×1間(7.3m×1.8m)、地蔵堂は3間×3間(5.5m×5.5m)、大日堂は2.5間×2間5寸(4.6m×3.8m)[34]。天平11年(739年)創建の高松最古の寺院で、高松城築城までは後に城内となる現西の丸町に所在した。
  13. ^ 徳法寺は真宗興正寺派の寺院。山号は銀杏山。寺域は143坪(472.7m3)、本堂は6.5間×6間(11.8m×10.9m)。永禄6年(1563年)に沙門明信が箆原庄(現高松市中心部)に草創する[32]。それが寛文9年(1669年)に焼失したため翌年当地に再興するも[18]1945年(昭和20年)7月4日の高松空襲によって被災し、戦後に[36]高松市桜町一丁目7番16号へ移転した[37]

出典

  1. ^ a b c 令和2年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2022年8月31日). 2024年11月19日閲覧。
  2. ^ 高松市 市民局 市民課 (2022年6月1日). “住居表示について”. もっと高松. 高松市役所. 2023年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年11月22日閲覧。
  3. ^ 高松市 教育局 学校教育課 (2023年8月1日). “高松市立小・中学校 校区一覧”. もっと高松. 高松市役所. 2024年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年11月22日閲覧。
  4. ^ 高松市. “都市計画情報マップ 用途地域 御坊町付近”. たかまっぷ. 高松市役所. 2014年8月11日閲覧。
  5. ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会 1985, p. 340.
  6. ^ a b c 高松市史編修室 1961, p. 28.
  7. ^ 高松市 1933, p. 251.
  8. ^ 高松市史編修室 1960, p. 134.
  9. ^ 高松市史編修室 1960, p. 144.
  10. ^ 高松市 1933, p. 658.
  11. ^ a b 高松市 1933, p. 35.
  12. ^ 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 450.
  13. ^ 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 432.
  14. ^ 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 737.
  15. ^ 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 659.
  16. ^ 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 681.
  17. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1985, p. 593.
  18. ^ a b c d e 香川県 1909, p. 180.
  19. ^ 平成7年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2024年11月19日閲覧。
  20. ^ 平成12年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2024年11月19日閲覧。
  21. ^ 平成17年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2012年1月17日). 2024年11月19日閲覧。
  22. ^ 平成22年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2012年12月11日). 2024年11月19日閲覧。
  23. ^ 平成27年国勢調査、小地域集計、37香川県”. e-Stat. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2024年11月19日閲覧。
  24. ^ a b c d e 高松市 1933, p. 307.
  25. ^ 高松市史編修室 1964, p. 546.
  26. ^ 香川県 1909, p. 178.
  27. ^ a b c 香川県 1909, p. 179.
  28. ^ a b 高松市 1933, p. 304.
  29. ^ 梶原猪之松 1930, p. 237.
  30. ^ a b c 高松市 1933, p. 311.
  31. ^ a b 梶原猪之松 1930, p. 240.
  32. ^ a b c d 高松市 1933, p. 312.
  33. ^ 香川県 土木部 都市計画課 (2018年4月1日). “都市公園データ”. かがわの都市公園. 香川県庁. 2018年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月19日閲覧。
  34. ^ 高松市 1933, p. 293.
  35. ^ 高松市 1933, p. 294.
  36. ^ 高松市史編修室 1966, p. 267.
  37. ^ a b 高松空襲戦災誌編集室 1983, p. 434.

参考文献

  • 香川県 編『香川縣史』 第貮篇、香川県、高松、1909年5月15日。doi:10.11501/766453NCID BN10786156OCLC 46901864 
  • 梶原猪之松 編『古今讃岐名勝図絵』高松製版印刷所、高松、1930年10月20日。doi:10.11501/1177091NCID BB0651263XOCLC 673493820 
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  • 高松市史編修室 編『高松地名史話 : 篦原五ケ荘このかたの地名をさぐる』高松市、高松、1961年8月20日。doi:10.11501/2985344NCID BN0906992XOCLC 673925236 
  • 高松市史編修室 編『新修高松市史』 第1、高松市、高松、1964年12月15日。doi:10.11501/3030912NCID BN05923101OCLC 672588589 
  • 高松市史編修室 編『新修高松市史』 第2、高松市、高松、1966年2月15日。doi:10.11501/3027206NCID BN05923101OCLC 672987703 
  • 高松市史編修室 編『新修高松市史』 第3、高松市、高松、1969年2月15日。doi:10.11501/3030978NCID BN05923101OCLC 703819378 
  • 荒井とみ三『高松今昔記』 第三巻、歴史図書社、1978年。 NCID BA61134900OCLC 64675566 
  • 高松空襲戦災誌編集室 編『高松空襲戦災誌』高松市役所、高松、1983年3月31日。doi:10.11501/12397820NCID BN06834018OCLC 15393979 
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 37巻《香川県》、株式会社角川書店、東京、1985年10月1日。doi:10.11501/12196656ISBN 978-4-04-001370-1NCID BN00094881OCLC 673687039 

関連項目