小野神社・矢彦神社
小野神社・矢彦神社(おのじんじゃ・やひこじんじゃ)は、長野県にある神社。小野神社は長野県塩尻市、矢彦神社は長野県上伊那郡辰野町に位置する。 両社は同じ社叢に隣接して鎮座しており、かつては1つの神社であったと伝えるが、現在は別の神社である。小野神社は信濃国二宮で[1]、両社とも旧社格は県社。 祭神小野神社祭神 矢彦神社祭神
歴史創建創建年代は不詳。伝承では、建御名方命が諏訪に入ろうとしたところ諏訪には洩矢神がいて入れなかったため、建御名方命はこの小野の地にしばらく留まったという[4]。 また矢彦神社社伝では、大己貴命が国作りに勤しんでいた折、御子の事代主命・建御名方命を従えてこの地に立ち寄ったという[5]。そして欽明天皇年間(539年-571年?)、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀売命を副殿に祀って祭祀の形が整ったと伝える[5]。 創祀の年代等は明らかではないが、当地が古くから交通の要衝であったこと、社宝の神代鉾・鉄鐸・御正体があることなどから、古い時期から祀られた神社であると見られている[4]。 概史国史・神名帳等の文献には小野神社・矢彦神社に関する記載はない。神名の初出は、諏訪大社上社の『祝詞段』(嘉禎3年(1237年)成立)にある「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神」の文言である[6]。永禄10年(1567年)の下之郷起請文中の仁科盛政の条では「小野南北大明神」と見える[7]。また、信濃国の二宮として崇敬されたといわれ、天正7年(1579年)の南方久吉契状に「小野二之宮造営」の記載がある[8]。 両社は古くは1つの神社を成していたといわれるが、小野盆地において飯田城主毛利秀頼と松本城主石川数正の領地争いがあり、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の裁定によって、盆地を流れる唐沢川を境に筑摩郡の北小野村と伊那郡の南小野村に分けられたことに伴い、神社境内も分割された[6]。江戸時代後期には共に天領となった(北小野村は松本藩預地、南小野村は旗本千村氏預地)。 小野神社・矢彦神社とも境内は北小野の地籍であったが、社叢南半分の矢彦神社が南小野の氏神となり、矢彦神社境内は南小野の飛地という扱いとなった[6]。そしてこの状態が現在に至るまで続いている。また門前町は初期中山道、三州街道(伊那街道)の宿場町小野宿となった。 境内社叢の位置と概要両社が鎮座する小野盆地は、通称を「頼母(たのも)の里」または「憑(たのめ)の里」と言われる。『枕草子』では「里は」の段で「憑の里」とあるほか、『夫木和歌抄』や菅江真澄の『委寧能中路』にも記載があり、都人にも知られた地であった[9]。これに由来して、現在の小野神社・矢彦神社の例祭も「田ノ実祭」「憑祭」と称される。そのほか、小野盆地には信濃28牧の1つ・小野牧があったことでも知られる。 両社の境内は同一の社叢内にあり、北に小野神社、南に矢彦神社が鎮座する。その社叢は針葉樹と広葉樹が混ざった混交林で、その種類は150種にも及ぶ。社叢の面積は36,326平方メートルで巨木も多く、この地方の天然林を残していることから「矢彦小野神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されている[5]。 なお、小野駅前には両社共通の大鳥居が建てられている(北緯36度02分51.82秒 東経137度58分13.16秒 / 北緯36.0477278度 東経137.9703222度)。 小野神社小野神社の社殿は、寛文12年(1672年)4月の焼失を受け、松本藩主の水野忠直が同年9月までに再建したものである。本殿2棟と八幡宮本殿が南から並列し、勅使殿がその前方中央に位置する。本殿が2棟あるのは、御柱祭の際に一方からもう一方へ遷座するためで、同形式・同規模の一間社流造で建てられている。八幡宮本殿はやや小さい一間社流造の見世棚造、勅使殿は切妻造の四脚門である。いずれも現在は銅板葺であるが、古くは柿葺であった。社殿には寛文期に共通する形式とともに、小野神社特有の形式も見られる。これら4棟は長野県宝に指定されている[5]。 2018年(平成30年)には台風第21号で本殿のうち1棟が倒木により大破する被害に遭っている[10][11]。
矢彦神社矢彦神社の祭神を祀る正殿・副殿・北殿・南殿は同一の形式・規模で、一直線上に並んでいる。 拝殿と左右の回廊は、天明2年(1782年)の造営、神楽殿は天保13年(1842年)の造営で、いずれも立川流の代表建築とされる。勅使殿は江戸時代の造営であるが、室町時代の様式を残した建築である。これら5棟は長野県宝に指定されている。
摂末社小野神社
矢彦神社
祭事
文化財長野県指定文化財
塩尻市指定文化財
現地情報所在地 付属施設
交通アクセス 周辺
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |
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