石川数正
石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 徳川家康の片腕として酒井忠次とともに活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主とみなすことが通説となっている[2]。 生涯出自家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏と称し、後に三河国に下った石川氏の与党と自称した。 天文2年(1533年)、石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生した[3]。石川清兼は祖父、石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたる。 家康の懐刀徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた。 永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻した。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍した。 永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継いだが、これは家成が家康の従兄にあたるためでもある。しかし、家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。信康が元服するとその後見人となった。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となった。 また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。 天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したとされる。 天正13年(1585年)3月までに数正は康輝(やすてる)と改名しており、以降短期間であるが「康輝」名義の文書を発給している[4]。 豊臣家への帰順ところが、天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ出奔した[5]。理由は「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされるが、はっきりした理由は分かっていない。数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は痛手であった。以後、三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。 →詳細は「§ 出奔の理由」を参照
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わる[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡[6])10万石に加増移封された[6]。松本の石高に関しては従来の8万石、10万石の2説がある[6]。数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守の造営など、政治基盤の整備に尽力した[7]。 没年については諸説あり、文禄2年(1593年)10月23日に京都で死去とする説や[8]、文禄元年(1592年)12月14日に京都の七条河原で葬礼が行われているため[9]、それ以前に死去という説もある[10]。 家督は長男の康長が継いだが[10]、遺領10万石のうち、康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、三男の康次は5,000石をそれぞれ分割相続する事となった。 出奔の理由数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたとされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。 秀吉との外交関連
松平信康関連
その他
登場作品小説数正を題材とする作品に限る。
テレビドラマ
特集番組脚注出典
参考文献
関連項目外部リンク |