対馬警備隊 (陸上自衛隊)
対馬警備隊(つしまけいびたい、英: JGSDF Tsushima Area Security Force)は、長崎県対馬市の対馬駐屯地に駐屯する第4師団隷下の離島警備部隊である。 来歴編成に至る経緯対馬は対馬海峡内にある離島として、朝鮮半島と九州の間に位置するほか、日本海の出入り口というチョークポイントを扼する位置でもあり、大日本帝国陸軍時代から対馬警備隊、ついで対馬要塞と部隊を配置してきた[1][2]。第二次世界大戦後はアメリカ軍通信部隊の厳原派遣隊が駐屯していたが、同隊は1959年(昭和34年)に撤退することとなった[3]。 当時の朝鮮半島の不安定な情勢も踏まえて、1962年(昭和37年)には対馬分屯地が設置され、第41普通科連隊(別府駐屯地)第4普通科中隊が第4師団長の直轄とされて、同地に派遣された[4]。対馬の戦略的価値等からは本来は独立部隊の配置が望まれたが、当時の国内外の微妙な情勢上の配慮、師団改編事業による定員措置の困難から、将来努めて早い時期に独立部隊を編成配置することを含みにして、このような措置がなされたものであった[4]。 以後も同連隊の普通科中隊を交代で派遣するという形が採られていたが[注 1]、普通科中隊は継続して独立行動をする能力を有しておらず、また母体である連隊のほうも連続して部隊を派遣するための業務負担が大きく、更に訓練等の年間計画を立てる上でも影響が大きかった[5]。このこともあって、西部方面隊からは対馬に配置する部隊の新編が継続して要望されており、第4次防衛力整備計画末の1976年(昭和51年)度に対馬への独立部隊の新編配置が計画されていたが、オイルショックによる財政事情の悪化等によって4次防計画の事業は大幅に後ろ倒しとなった[4]。 その後、1977年(昭和52年)3月の「昭和52年度以降の防衛力整備計画の見直し」にあたって、対馬の防衛警備態勢の充実強化および現行の1個普通科中隊分派による諸問題点を解決するため、少しでも早く独立部隊の新編を達成すべきであることが盛り込まれた[4]。これを受けて編成されたのが本警備隊であり、1980年(昭和55年)3月25日に編成が完結した[4]。 沿革
対馬派遣隊(第41普通科連隊第4普通科中隊) 対馬警備隊
編成対馬警備隊は普通科中隊1個を基幹とする小規模な部隊であるが、警備隊長としては1等陸佐(二)が補職される[5]。他部隊と比較すると、人員数ではほぼ同規模の普通科大隊(2等陸佐)はもちろん、旅団隷下の普通科連隊(1等陸佐(三))よりも格上で、師団隷下の普通科連隊と同格の扱いとなっている[5]。これは、有事に他の地域から増援されてきた部隊を指揮下に編入することを想定した措置とされている[5]。 このような措置を踏まえて、隊としての指揮・後方支援機能も充実している[5]。例えば隊本部の管理支援を目的とする本部中隊は、部隊名こそ普通科大隊の本部中隊と同じだが、編成的にはこれまた普通科連隊の本部管理中隊に準じたものとなっている[5]。すなわち、普通科大隊の本部中隊は大隊本部班・情報小隊・通信小隊・対戦車小隊のみの編成なのに対して、警備隊の本部中隊には、隊本部班・情報小隊・通信小隊・対戦車小隊に加えて施設作業小隊や衛生小隊、狙撃班も設置されている[5]。 また普通科連隊・大隊には存在しない後方支援隊が設置されているのも、大きな特徴である[5]。これは増援部隊が到着し、警備隊の規模が拡大して兵站支援業務が増大しても対応できるようにするとともに、大規模災害なども含めて駐屯地・島が孤立した場合にも独立して活動を継続できるようにする意図もあると考えられている[5]。また平時においては駐屯地管理業務も担当している[5]。 なお1個のみ設置されている普通科中隊も、通常の連隊隷下の普通科中隊では3個小銃小隊を基幹としているのに対し、警備隊隷下の普通科中隊では4個小銃小隊を基幹としており、中隊としての規模は大型編成とされている[5]。また構想段階では舟艇中隊の編制・編入も検討されたが、内局の同意を得られず最終的には断念している[2]。 組織
主要幹部
主要装備
部外との関係対馬には他自衛隊も配備されており、海上自衛隊は対馬防備隊(上対馬警備所・下対馬警備所)が対岸の壱岐警備所と協同して対馬海峡の通航監視を行っているほか、航空自衛隊も第19警戒隊が対馬の最北端にある海栗島にレーダーサイトを設置して朝鮮半島方面の空を警戒している。 その他機関として、長崎県警察が警察署を2ヵ所設置しているほか海上保安庁は対馬海上保安部・比田勝海上保安署を設置し、かがゆき型巡視艇6隻とモーターボート2隻の計8隻を配備している。そのほか、水産庁が漁業取締船で対馬沖を監視することがある。 駐屯地隊員は対馬島民から「やまねこ軍団」の愛称で呼ばれ、各種訓練や地域行事の支援を行っている。 厳原港まつりへの部外協力対馬の厳原港で1964年(昭和39年)から開催されている「厳原港まつり」がある。平成2年長崎旅博の地方会場とし選ばれたのをきっかけに[7]、韓国K-POP歌謡ショーや朝鮮民族の舞踊、朝鮮通信使行列を再現して韓国人を歓迎するパレード等へ港まつりの内容を大幅に改変して「厳原港まつり対馬アリラン祭」という朝鮮通信使の歴史を偲ぶ観光物産イベントとした。2012年(平成24年)に起こった対馬仏像盗難事件のため、2013年(平成25年)に祭の名前からサブタイトルの「対馬アリラン」を削除した[8]。 対馬警備隊では、対馬市の民生安定のため毎年の運営に全面的な協力を行なっており、曹友会に属する隊員は地元商工会に協力して祭りの運営を数週間前から支援、警備隊員は朝鮮通信使の扮装をしてパレード、警備隊長は当時の対馬藩藩主の衣装でアリラン祭りの舞台に登壇し、祭りに合わせて対馬に来日する韓国からの観光客に対して歓迎の言葉を述べるのが恒例行事となっている。 脚注注釈
出典参考文献
関連項目
外部リンク
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