対馬警備隊 (日本軍)
対馬警備隊(つしまけいびたい)は、対馬を防衛するために、大日本帝国陸軍に置かれていた部隊。 概要対馬は地理的に朝鮮半島、大陸との境界にあたる日本の最前線に位置し、歴史的には平安時代の刀伊の入寇、鎌倉時代の文永の役(元寇)、室町時代の応永の外寇など対外侵攻を受けてきた。幕末にはロシア海軍に一時占領される事件なども起こり、近代には対馬の防衛が意識され、明治に建軍された帝国陸軍や、戦後の陸上自衛隊は対馬に特別の警備隊を派遣することとなる。 大日本帝国陸軍では、1878年(明治11年)に熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣していた。これを改編して、1886年(明治19年)12月3日に「対馬警備隊」が置かれることとなった(明治19年12月3日陸達第2号)。 当初は第6師団に属したが、後に対馬の防衛が第6師団から新設の第12師団に移管されたのに伴い、第12師団に属した。1899年11月14日、司令部が長崎県対馬国下県郡今屋敷町の町村会議事堂に移転した[1]。1901年8月16日、司令部は下県郡鶏知村の新築庁舎に移転[2]。 1903年(明治36年)4月14日には「対馬警備隊司令部条例」(明治36年4月14日勅令第80号)が制定された。司令部は下県郡鶏知村に置かれた。 1920年(大正9年)8月9日に廃止され、対馬要塞司令部に改編された。 平時定員(明治23年)1890年(明治23年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の対馬警備隊の平時定員は次の通りであった。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。
よって、警備隊全体では、将校12名、下士25名、兵卒等193名、各部31名の総計261名、乗馬2匹が定員となっていた。 歴代司令官
脚注関連項目
参考文献
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