姉崎町(あねさきまち)は、千葉県中央部の千葉地域にかつて存在した町[1]。現在の市原市とほぼ同範囲を郡域とする市原郡に属していた[1]。
概要
1889年の町村制施行にともない鶴牧村(つるまきむら)として発足し、1891年に町制を布いた際に姉崎町に改称した。昭和の大合併により廃止されて市原市の一部となった[1]。
旧町域は市原市役所姉崎支所の管轄区域、また後年一部は市原市役所有秋支所の管轄区域となっており、姉崎地区及び有秋地区と呼ばれている[2]。
地理
地形
北西方向は東京湾に面している。埋め立て以前の浜は遠浅で、太平洋沿岸や南房総のような大きく激しい波がなく、毎年3月の大干潮では岸から4,800m程の沖合まで徒歩で行くことが可能で、満潮の時には7 - 10m位の場所まで泳ぐことが出来た[3]。東京湾の奥に富士山一帯の連峰を見渡せ、北の遥かには筑波山を眺めることができる[3]。
気候
気象上、この地方一帯は、熱が取り払われた海風によって、涼味に浸ることができた[3]。
河川
主な河川は以下の通りである。
隣接自治体
地域
町内の大字は以下の通りであった[1]。
人口
行政
行政中央機関
町長
財政
産業
工業
商業
農業
林業
水産業
観光業
埋め立て以前の観光は、潮干狩りや海水浴が中心であった[3]。海は穏やかで、遠浅でハマグリ、バカガイなどの貝類が養殖されている浜であったため、特に当時の女性が「危険の少ない潮干狩り場」としてよく訪れており、東京の各女学校から学生が潮干狩りによく訪れていたという[3]。太平洋沿岸や房州のような大きく激しい波がなく、やはり女性の海水浴に人気であった。町営の脱衣場が整備され、公衆浴場もでき、事務所がある等、様々な海水浴客の求めに応えられる設備が整っていた[4]。
歴史
沿革
年表
生活
明治後期 - 大正時代
避暑地として新開な地域であったため、人々は純朴であり、都会人を見て暴力行為を行うことは決してなく、むしろ優待していたという[3]。物価は安く、特に魚類は新鮮溌溂なものが常に食膳に並んでいた[3]。当時、東京で風味の良い魚の多くは、この辺りで獲れたものに限られていると言われていた位である[3]。野菜は近在の生産者から直接買われ、その他梨桃などの果物は「市原梨」と言う風味の良いものが多く生産されていた[3]。家賃は1ヶ月畳代1円50銭から2円程であり、比較的安価であった[3]。また、飲料水が清洌で噴出するので、保健上で配慮するところが少なかった[3]。
昭和時代
文化
施設
名所
交通
脚注
注釈
出典
関連項目
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