呂号第四十六潜水艦
呂号第四十六潜水艦(ろごうだいよんじゅうろくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の12番艦。 艦歴1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年6月13日、三井玉野造船所で起工。1943年(昭和18年)4月23日進水。1944年(昭和19年)2月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。 4月2日2145、愛媛県水無瀬南西沖で訓練のため潜航中、同じく潜航していた伊46と衝突し、喫水線下に損傷を受けた。その後、修理を受ける。6月23日、第34潜水隊に編入[3][4]。 同日、呂46は呉を出港し、サイパン周辺海域に進出[3][4]。7月3日、故障のため呉に到着し修理を受ける。 9月19日、呉を出港しパラオ南西沖に進出[4]。28日、パラオ南西沖で米空母1隻を発見するも、距離が遠かったため攻撃できなかった。10月1日、別の米空母1隻を発見するも、攻撃に失敗。7日、回天攻撃の事前偵察のためウルシー西方沖に到着。ウルシーを潜望鏡で偵察した結果、ウルシーには米空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill, CV-17)、重巡2他の機動部隊が停泊中であることを報告した。14日、呉に到着[4]。 20日、呂46は乙潜水部隊に編入されて呉を出港し、レイテ沖海戦に参加するべくフィリピン東方沖に進出。11月13日、撃墜された一式戦闘機の搭乗員1名を救助。19日、舞鶴に到着[4]。その後呉に移動した。 1945年(昭和20年)1月8日、呂46は呉を出港し、ルソン島西方沖に進出。29日、北緯14度48分 東経119度18分 / 北緯14.800度 東経119.300度のイバ西方沖で米攻撃輸送艦「キャヴァリア(USS Cavalier, APA-37)を発見。翌30日0133、雷撃を行い同艦を撃破した[4]。損傷したキャヴァリアはその後レイテ島に曳航されていった。2月4日、高雄に到着。 7日、呂46は高雄を出港し、ルソン島バトリナオの残留搭乗員の救出に向かった。10日に日付が変わった直後、バトリナオ沖で大発と会合し、大発に乗っていた搭乗員46名を収容した後[4]、出港。12日に高雄に到着した。 13日、呂46は高雄を出港し、南西諸島周辺海域を哨戒。19日、呉に到着[4]。 4月6日、呂46は呉を出港し、北大東島へ向かう[4]。17日、北大東島北東60浬地点で定時連絡と位置の報告を最後に消息不明[1]。 アメリカ側記録によると、29日、沖縄へ向かう海上輸送路を対潜哨戒中の米護衛空母ツラギ( USS Tulagi, CVE-72) の艦載機が潜水艦を発見。攻撃により潜水艦を撃沈した[1][4]。これが呂46の最期の瞬間であり、艦長の木村正男少佐以下乗員86名全員戦死[5]。沈没地点は沖大東島沖、北緯24度15分 東経131度16分 / 北緯24.250度 東経131.267度。 5月2日、沖縄方面で亡失と認定され、6月10日に除籍された。 撃破総数は1隻で、撃破トン数は8,100トンである。 歴代艦長艤装員長
艦長脚注参考文献
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