呂号第五十五潜水艦 (2代)

艦歴
計画 昭和17年度計画(マル急計画[1]
起工 1943年8月5日[1]
進水 1944年4月23日[1]
就役 1944年9月30日[1]
その後 1945年2月7日ヘッジホッグにより沈没[1]
亡失認定 1945年3月1日[1]
除籍 1945年5月10日[1]
性能諸元
排水量 基準:960トン 常備:1,109トン
水中:1,447トン
全長 80.50m
全幅 7.05m
吃水 4.07m
機関 艦本式22号10型ディーゼル2基
電動機、2軸
水上:4,200馬力
水中:1,200馬力
電池 1号15型240コ[2]
速力 水上:19.8kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで5,000海里 
水中:5ktで45海里
燃料 重油
乗員 61名
兵装 40口径8cm高角砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷10本
備考 安全潜航深度:80m

呂号第五十五潜水艦(ろごうだいごじゅうごせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂三十五型潜水艦(中型)の17番艦。初代については呂号第五十五潜水艦 (初代)を参照。

艦歴

1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画[1]により、1943年(昭和18年)8月5日、三井玉野造船所で起工。1944年(昭和19年)4月23日進水。1944年9月30日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日舞鶴鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。

1945年(昭和20年)1月4日、第34潜水隊に編入[3][4]

27日、呂55はを出港し、ミンドロ島西方沖に進出[4]。2月2日、ルソン島東方で敵機の攻撃を受けたため哨戒区域への到着が5日遅れるとの報告を最後に消息不明[1]

アメリカ側記録によると、7日、ルソン島近海でレイテ湾に向かっていた輸送船団を護衛していた米護衛駆逐艦トーマソン英語版(USS Thomason, DE-203)が浮上中の潜水艦をレーダー探知。2330、潜航した潜水艦へヘッジホッグ24発を投下し、潜水艦を撃沈した[1][4]。これが呂55の最期の瞬間であり、艦長の諏訪幸一郎大尉以下乗員80名全員戦死[5]。沈没地点はルソン島イバ付近、北緯15度27分 東経119度25分 / 北緯15.450度 東経119.417度 / 15.450; 119.417

3月1日、フィリピン西方で亡失と認定され、5月10日に除籍された。

歴代艦長

艤装員長

  • 不詳

艦長

  • 諏訪幸一郎 大尉:1944年9月30日 - 1945年2月7日戦死[1][5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本海軍史』第7巻、376頁。
  2. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
  3. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』96頁。
  4. ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』157頁。
  5. ^ a b 『艦長たちの軍艦史』454頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』157頁。

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9