名古屋市中央卸売市場名古屋市中央卸売市場(なごやしちゅうおうおろしうりしじょう)は、愛知県名古屋市が運営している中央卸売市場である。 概要1949年(昭和24年)4月、名古屋市によって熱田区に開設された中央卸売市場で[WEB 1][WEB 2]、1983年(昭和58年)3月に西春日井郡豊山町に北部市場[WEB 3]、2007年(平成19年)2月には名古屋市港区に南部市場が設置されたことから[WEB 4]、熱田区の市場は「本場」と称され、本場では主に生鮮食料品を[WEB 1]、北部市場は青果・水産物[WEB 3]、南部市場は食肉を扱う[WEB 4]。 平成22年度の総取扱高は 2,838億3,978万7,694円[WEB 5]。 歴史成立前史名古屋という都市における卸売市場の前史をたどると、熱田魚市場と枇杷島青物市場に至る[1]。 熱田魚市場の起源ははっきりしないが、熱田はもともと七里の渡しの発着場であることからわかる通り、港町であり、その場所で魚の集散を行っていたものが自然と発展していったものと考えられる[1]。寛永年間には問屋の株数が定まり、木之免と大瀬子の2箇所に、各4軒ずつの問屋が置かれるようになった[1]。天保年間には、尾張・三河・伊勢のみならず、紀伊・駿河・遠江からも魚を集める業者が成立し、大いににぎわった[1]。 枇杷島青物市場は、清須市西枇杷島町橋詰町や南問屋町周辺に存在した[1]。こちらの起源もはっきりしていないが、1622年(元和8年)に問屋6軒が成立したという説があるという[2]。問屋は尾張藩に保護され、のちに38軒を数えるまでになった[3]。尾張・美濃・三河・伊勢・駿河だけでなく、京阪方面からの物品が運ばれ、万物問屋とも称された[3]。 明治時代に至って、藩の庇護を失ってもなおその繁栄は衰えなかったが、大正年間に入ると、物価の高騰などにより中央卸売市場開設が各地で行われるようになった[4]。名古屋市でも、1922年(大正11年)に西柳町の中央市場株式会社と船入町の名古屋水産市場株式会社の2社を買収し、中央卸売市場への改組を目指すという方針が打ち出された[5]。しかし、この計画は実を結ばなかった[6]。1933年(昭和8年)にも市内卸売を統合する計画が持ち上がるが、これも廃案の憂き目を見ている[6]。 中央卸売市場の計画が具体化したのは、戦時統制が進む中で、生鮮食料品などについても統制下におかれることになったためであった[6]。1942年(昭和17年)4月、名古屋市の生鮮食料品等配給調査臨時委員会が、愛知県食品市場規則に則った中部・北部・南部の3卸売市場の建設などに関する答申を示した[7]。 中部市場は熱田区の湿地帯に建設されたが、1945年(昭和20年)に完成直後、名古屋大空襲により焼失してしまった[8]。 また、北部市場に相当する市場は、西春日井郡西枇杷島町の庄内川河川敷を予定していたが、西区上更通の土地を買収することで整備することとなった[9]。これは1955年(昭和30年)1月に、従来の枇杷島の名称を受けついて、枇杷島市場として開場した[9]。 市場
かつて存在した市場
脚注WEB
書籍
参考文献
関連項目外部リンク |
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