出岐雄大
出岐 雄大(でき たけひろ、1990年4月12日 - )は長崎県長崎市出身の元陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。2011年第26回ユニバーシアード競技大会男子ハーフマラソン日本代表。長崎県立長崎北陽台高等学校、青山学院大学社会情報学部卒業。中国電力陸上競技部に所属した。 来歴小学校時代に野球経験があり、中学時代はサッカー部に所属していた[1]。長崎北陽台高校に入学後もサッカー部に所属していたが、助っ人として駅伝に出場していた。陸上部顧問の勧誘を受けて陸上部に入部[1]。2年時の佐賀インターハイ3000mSCで決勝進出を果たし、15位の成績を残した[2]。3年時の埼玉インターハイも1500mと3000mSCで全国大会に進んだ[3]。 2009年、青山学院大学に入学。大学4年時の箱根駅伝優勝を目標に大学で陸上競技を続けた[4][5]。第86回箱根駅伝では1区区間9位でチームの41年ぶりのシード権獲得に貢献した。 2年時は10月の高島平20kmロードレースで実業団選手に競り勝ち58分51秒の記録で優勝[6]。第87回箱根駅伝では2区を担当。11人抜きの快走を見せた。 3年時は4月の第59回兵庫リレーカーニバル10000mで29分04秒16の記録で優勝[7]。8月に深圳で行われた第26回ユニバーシアードハーフマラソンでは6位に入賞[8]、同種目の団体金メダル獲得に貢献した。10月の第23回出雲駅伝は1区区間4位。11月の第43回全日本大学駅伝では2区で10人抜きの快走を見せ、早稲田大学の大迫傑らを抑えて区間賞を獲得した[9]。同月の国際千葉駅伝では日本学生選抜の一員として5区を務めた[10]。第88回箱根駅伝では2区で9人抜きの快走を見せ、1時間07分26秒の記録で区間賞を獲得した[11]。3月の第67回びわ湖毎日マラソンで初マラソンを経験。雨の降る中で30kmまで先頭集団でレースを進め、学生歴代3位となる2時間10分02秒の記録で9位に入った[12][13]。 4年時は怪我が相次ぎ[14]、6月の第44回全日本大学駅伝関東地区予選会では4組36位と失速し本大会出場権を逃している[15]。しかし怪我から復帰した10月の第24回出雲駅伝では最終6区を務め、初優勝のゴールテープを切った[16]。11月の国際千葉駅伝では2年連続日本学生選抜として5区を担当した[17]。第89回箱根駅伝はふくらはぎの怪我もあり10区を任されたが[18]、区間14位に終わった。 大学卒業後は中国電力陸上競技部に加入。2014年のニューイヤー駅伝では最終7区区間8位の走りでチームの5位入賞に貢献した。 2015年1月の第20回全国都道府県対抗駅伝では長崎県代表として最終7区を担当、区間賞の走りでチームを8位入賞に導いた[19]。 2015年7月のゴールドコーストハーフマラソンでは1時間02分11秒の自己ベストで優勝[20]。 2016年2月の東京マラソン2016では2時間15分49秒で26位に終わる。その後、「箱根(駅伝)以上の目標が見つけられない」と、モチベーションの低下を理由に2016年3月限りで中国電力陸上部からの退部・現役引退を決意。結果的に同レースがラストランとなった[21][22]。 競技引退後は中国電力で社業に専念。2019年1月3日のTBS系列『消えた天才』に出演し、陸上競技からの引退要因について「元から陸上は好きでも興味もなく、強い思いが有りませんでした。大学時代は原晋監督の魔法に掛かっただけです」「走ることが単純過ぎて何が面白いのかが分からず、キツい猛練習が耐えられなくて嫌いに成りました。中途半端な気持ちで続けては会社に失礼と思いました」と告白。尚、青山学院大の後輩達が箱根駅伝で活躍していることについては「自分から何か学んでくれて生かしてくれたなら、頑張ってきて良かったです。今は後悔無しにやれたと思っています」と笑顔で語っていた[23]。 ベスト記録
大学駅伝成績
マラソン全成績
脚注
外部リンク
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