内田袈裟彦
内田 袈裟彦(うちだ けさひこ、1937年3月31日 - 2009年12月30日)は長野県出身の元プロゴルファー。 愛称は「ケサゴン」。 父・棟、次男・政美もプロゴルファー。 来歴生まれた頃から自宅の目の前にゴルフ場がある環境で育ち、キャディのアルバイトをしていた[1]。12歳からゴルフを始めていたが、すぐにプロにはならず、製薬会社に勤務。袈裟彦は会社勤めの傍ら、棟のクラブを無許可で使用して隠れて練習をしていた[1]。そのため、軽井沢ゴルフ倶楽部の従業員コンペのトーナメント表に袈裟彦の名前を発見した棟は、あまりに良いスコアで「どうしてこんなに上手なのか」と驚いた[1]。 その後、袈裟彦は会社を辞め、プロゴルファーを目指すことを宣言。プロテスト史上初のホールインワンを出し、3度目の挑戦となった24歳で見事ツアープロとなった[1]。 1969年の日本オープンでは杉本英世・内田繁に次ぐと同時に石井朝夫・柳田勝司・細石憲二・島田幸作を抑えての3位に入り[2] [3]、1971年にアジアサーキットのマニラオープンで初優勝を果たす。 1976年にはシンガポールオープンで4打差3位から追い上げたベン・アルダ( フィリピン)[4] [5]、グラハム・マーシュ( オーストラリア)を抑えて海外2勝目[6]を挙げる。3日目にコースレコードを塗り替える7アンダー65をマークして首位に立ち、最終日逃げ切って通算11アンダーで優勝し、賞金6400ドル、日本円で192万円を獲得[4] [5]。 1978年のジーン・サラゼン ジュンクラシックでは大混戦になった優勝争いで菊地勝司・長谷川勝治と三つ巴[7]のサドンデス・プレーオフにもつれ込み[8]、プレーオフは、まず2ホール目で長谷川がボギーを叩いて脱落[8]。18番ミドルホールで菊地と共にボギーのあと再び戻った16番ミドルホールで、菊地がボギーを叩いたのに対し、バーディーを決めて[8]決着。国内初制覇を飾り[9] [10] [11]、18年目にしてツアー初制覇となった[12]。 1980年の新潟県オープンでは初日を石井秀夫・田原紘・天野勝・金井清一・中嶋常幸を抑えると同時に船渡川育宏と並んでの首位タイで終え[13]、最終日には石井・金井に次ぐと同時に上原宏一・船渡川・栗原孝・田原を抑えての3位タイに入った[14]。 試合で360ヤードのパー4をワンオンするなど飛ばし屋として人気を集め[15]、1987年からはシニア入り。定評のあるロングドライブに加えて、2番アイアンをパターに改造するなどの器用さで通算7勝をマーク。就寝中に夢に出てきたパターを形にした「ケサゴンパター」[15]で、1988年にはPGAシニアツアー初代賞金王となるなど活躍。棟89歳、袈裟彦68歳となった2006年6月には親子で関東プロゴールドシニアに出場。結果は息子の袈裟彦が優勝し、2度目の癌手術の後の棟は最下位であったが、忘れられないトーナメントとなった[9]。結局、一緒にラウンドしたのはこの1度だけであった[1]。2009年12月30日、心筋梗塞のため旅行先のタイ・チェンマイの病院で死去。72歳没。 次男の政美曰く、晩年は調子が悪いということもなく、タイに行く前には、今度プロテストを受験する政美の娘とラウンドしていた[15]。娘が合格すれば四代のプロゴルファーが誕生するということで、棟も楽しみにしていた[15]。棟にとって人生最大の哀しい出来事[9]となったが、その後の2016年には日本プロスポーツ大賞スポーツ功労賞文部科学大臣顕彰を授与される[16]。2019年7月23日に北佐久郡の自宅で老衰のため逝去[1]。 主な優勝レギュラー
海外
シニア
脚注
外部リンク
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