具志頭朝盛
具志頭 朝盛(ぐしちゃん ちょうせい、万暦6年(1578年)5月20日 - 万暦38年(1610年)8月21日)は、琉球王国第二尚氏王統の摂政。尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の四世で、唐名は尚宏、童名を思次郎金という。家譜や史書などで采地名の「具志頭」に接頭美称辞「大(読みはウフ)」を付して「大具志頭王子朝盛」と表記されることもある。7代尚寧王の弟。 概要尚真王代(1476年 - 1526年)に廃嫡された尚維衡・浦添王子朝満の曾孫であるが、6代尚永王が薨じたとき、推されて長兄:尚寧が践祚し、これによって朝盛は王弟となり王子位に陞った。のちに父親である尚懿・与那城王子朝賢も、王の父たるをもって王号を追贈されている。 また兄王のもと摂政に任じられたが、これは第二尚氏の時代における最初の摂政であった。 ![]() 1609年の薩摩藩の琉球侵攻にさいしては和議の使者としてこれにあたり、その後兄王が薩摩へ連行されるときには随行し輔弼した。のち一旦帰国するも再度薩摩へ赴き、翌1610年に兄王ともども島津家久に伴われて江戸へむかうが、駿府で徳川家康に謁したのち、二週間ほどで病をえて同地で亡くなった。家康はその死を哀れみ特に命じて葬礼を行わせた。駿府(駿河)の清見寺に葬られ、俗に駿河王子と呼ばれるようになった。清見寺は東海道沿いにあり、後代の江戸上りの使者はその途上でここを詣でるのが慣例になったのが、諸史料からうかがえる。この墓所については司馬江漢の『江漢西遊日記』にも言及が見える。 墓所は現存し、たびたび墓前で慰霊祭などが行われる(近年では2001年の*追善供養、2004年の御座楽奉納演奏など)が、遺骨は廃藩置県後に子孫によって沖縄の小禄御殿墓に移葬されているようである。この時、分骨されたのかは詳かではない。 系譜父:尚懿・与那城王子朝賢の二男一女中の第二子次男として生まれる(母は首里大君加那志)。廃嫡の憂き目にあった系祖の尚維衡・浦添王子朝満は朝盛からみると曾祖父にあたる。正室のほか妾が一人おり、子は二男一女がある。正室:思戸金・恵郎部阿応理屋恵按司との子が長男と長女で、妾:思戸金(朝盛の領していた具志頭間切の出自)との子が次男である。長女の真銭金はのちの8代王である尚豊王に嫁いだ。
経歴(月日は旧暦)
登場作品関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia