倉石武四郎
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年(明治30年)9月21日 - 1975年(昭和50年)11月14日[1])は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 来歴1897年、新潟県高田町(現・上越市)に[2]、十三人兄弟の四男として生まれる[1]。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ[1]。卒業論文では中国天文学を扱う[1]。在学中『支那学』誌を読んで青木正児の紹介する文学革命に刺激を受け、京都帝大進学を志す[1]。進学前、中国旅行や東京帝大副手を経る[1]。 1922年、京都帝国大学大学院に進学、新城新蔵の下で中国天文学を扱いつつ、狩野直喜に師事する[1]。1926年京都帝大講師、1927年助教授[3]。東京帝大後輩の長沢規矩也によれば、倉石は京都帝大に進んで以来、学風から性格に至るまで狩野直喜に似るようになった[4]。 1928年から2年間、中華民国期の北京に後輩の吉川幸次郎とともに留学し、山西省・南京市・上海市を歴訪して帰国する[1]。この間、銭玄同・呉承仕・孫人和・馬裕藻・朱希祖・楊鐘羲の下で学び、胡適・魯迅・章炳麟・黄侃と交流する[1]。 帰国後の1930年からは、京都帝大で教鞭を執りつつ、東方文化学院京都研究所で吉川幸次郎・小川環樹らとともに、『尚書正義』の定本を作るための会読に携わる[1]。 1939年、京都帝大で文学博士号取得。博士論文では清朝音韻学(段玉裁の説文学)を扱う[1]。 1940年から、京都帝大と東京帝大の教授を兼任する[3]。兼任に至った経緯として、東京帝大後輩の長沢規矩也による塩谷温の後任探しがあった[4][5]。戦後から、音響学者の小幡重一と共同で方言音を研究したり、近畿の古寺に伝わる仏典読誦方法を基に中古音を研究したりする[1]。 京都帝大・東京帝大兼任期には国語審議会委員の委嘱を受けた。1943年5月時点の審議会名簿に名が見える。戦後は国語審議会改組までの時期に臨時委員、1949年の改組以降は委員となり、1959年から1961年までの第5期国語審議会では副会長を務めた。1952年の第2期国語審議会以降は国立国語研究所評議員の肩書も有している[6]。 1949年からは、東大文学部教授専任になり東京に移住[1]。以降、日本学術会議の第一期会員、日本中国学会の結成、NHKラジオ第二放送の中国語講座の担当、中国学術文化視察団の一員として中華人民共和国への訪問など、多くの重職を務める[1]。 1958年に定年退官[3]。退官後も、東京大学・京都大学の名誉教授として、日中学院を主宰するなど中国語教育に努める[1]。 1975年、病没[1]。 研究・業績研究上の業績は、清朝音韻学、現代中国文学、中国語学、中国語教育、ラテン化新文字や拼音の紹介など多岐にわたり、『岩波中国語辞典』の編纂でも知られる[1]。 中国留学中に購入した陶湘の蔵書は、東方文化学院京都研究所(後の京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)の所蔵漢籍の基幹となった[7][8]。 漢文訓読批判→「漢文訓読」も参照
中国留学からの帰国後「訓読を玄海灘に投げすてて来た」と称し[9]、あたかも荻生徂徠がそうしたように、漢文訓読ではなく現代中国語音での音読による中国学を推進した[10]。 『中国語五十年』(1973年)には、以下のような記述がある。
家族・親族
著作単著
共編著翻訳
関連文献
外部リンク脚注
関連項目 |
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