関野貞
関野 貞(せきの ただし[1]、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授[2][3][4][5]。 経歴高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業[6]。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで 内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した[7]。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された[8]。また、1912年に基肄城跡を確定し[9]、1917年に屋嶋城跡を発見した[10]。調査研究に導入した技術や遺構・遺物の様式論は、その後の日本考古学に多大な影響を残した[5]。 1901年東大助教授、1910年教授。この間、平城宮址の研究を進め、1908年に工学博士の学位を授与された[11]。また、建築史を講義し、「日本建築様式史」を確立した。国宝保存委員会委員・文部省国宝鑑定官などを務め、日本建築の保存事業に尽力した[2][12]。 1910年朝鮮総督府からの委嘱で、度々朝鮮半島や中国の古建築調査を行い、保護に努めた。『朝鮮古蹟図譜』の公刊により1917年、フランス学士院からスタニスラス・ジュリアン賞を受賞。 1906年清国に派遣され、中国建築の研究にも手を染める。1920年には国民軍の石友三によって焼き討ちされる前の少林寺を撮影した[13]。1929年東方文化学院東京研究所で、「支那歴代帝王陵の研究」や「遼金時代の建築とその仏像」などを研究した。 1928年、中国の河北省で、数年前より売りに出されていた北魏時代の石仏を発見。翌年、大倉喜七郎に働きかけて購入、日本に持ち帰り大倉集古館に収蔵させた[14]。墓所は多磨霊園(6-1-12-27) 著作
建築作品
その他脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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