胡適
胡 適(漢音:こ せき、慣用音:こ てき、1891年 - 1962年)は、中華民国の哲学者・思想家・外交官。もとの名は嗣穈、後に適と改名した。字は適之。 アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学び、新文化運動の中心を担った。中国哲学・中国文学を広く論じた。北京大学教授のち学長。中国国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾に移住した。 青年期1891年、江蘇省松江府川沙庁で生まれ、本籍地の安徽省徽州府績渓県で育った。14歳のとき、社会進化論の書物『天演論』(T.H.ハクスリー著・厳復訳)を読んで感銘を受け、同書の中の用語「適者生存」にちなんで「適」と名乗るようになった[2]。 1910年(宣統2年)、19歳のとき、アメリカに留学し、コーネル大学で農学を学び、次いでコロンビア大学のジョン・デューイのもとでプラグマティズムの哲学を学んだ。 1917年、コロンビア大学にて、論文「古代中国における論理学的方法の発展」(The Development of the Logical Method in Ancient China, 後に書籍化。中国論理学を扱う)で哲学博士号を取得した[3]。 民国初期アメリカに滞在中の1917年(民国6年)、陳独秀の依頼で雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命を理論面で後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。 同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、20歳代半ばにして北京大学教授となり、プラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。この時、受講生だった顧頡剛に影響を与え、のちに疑古派が生まれるきっかけを作った。 1919年(民国8年)、『新青年』が無政府主義・共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大釗と「問題と主義」論争を起こし、これらの主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国の歴史・伝統思想・文学などを研究した。 1922年(民国11年)、『努力週報』を創刊し、共産主義・無政府主義に対して改良主義・好政府主義を主張した。 1925年(民国14年)前後、禅に関する論考を著し始める。1930年(民国19年)、大英博物館の敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表した。 抗日戦争期満洲事変が起こると、1932年(民国21年)、『独立評論』を創刊し、日本の満洲支配を非難している。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとは限らない」が故に“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。1935年(民国24年)には「日本切腹中国介錯論」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。1936年ごろ面会した清水安三は胡適が「今は満州事変時より中国に有利であり、日本は国際的に孤立している。日支は戦ってはならぬと以前は主張したが、今日では日本とどうしても戦わねばならぬ」と発言したことを記している[4]。その後、蔣介石政権に接近し、1938年(民国27年)駐米大使となってアメリカに渡り、1942年(民国31年)に帰国した。 1939年と1957年にノーベル文学賞候補にノミネートされたが[5]、受賞を逃した。 晩年1946年、北京大学学長に就任。1949年(民国38年)、中国共産党が国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命した。1950年代には共産党政権下で「胡適思想批判」が展開された[6]。 1957年(民国46年)から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長(1957-1962年)に就任した。『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。1949年にはハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議で鈴木大拙と禅研究法に関して討論を行った。1962年、逝去。 著作原著→「zh:Category:胡適作品」も参照
著作集など
日本語訳
関連文献
脚注
関連項目
|