島田虔次
島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日[1] - 2000年(平成12年)3月21日[1])は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。1940年代から中国近世・近代思想史の研究を続け、その後の日本の研究を牽引した。 生涯
1917年、広島県三次市で生まれた[1]。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)、広島県立三次中学校(現:広島県立三次高等学校)、中華民国青島日本中学校を経て、1938年に第三高等学校文科丙類を卒業した。京都帝国大学文学部史学科で学び、1941年に卒業。
卒業後は長野県立野沢高等女学校(現:長野県野沢南高等学校)に勤務。1943年、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手に採用された。東海大学予科教授を経て、1949年に京都大学人文科学研究所助教授となった。1969年に同教授昇格。1975年京都大学文学部教授に配置換えとなり、第3講座(東洋史学)を担当した。1981年に京都大学を停年退官し、名誉教授および同・人文科学研究所名誉所員となった。1997年、日本学士院会員に選出された[2]。 研究内容・業績
研究の軸となったのは、中国の近世から近代にかけての思想史である。主著『中国における近代思惟の挫折』(1949年)は、明末の陽明学者・李贄に西洋的近代思惟の萌芽を見出すという、当時では先鋭的な内容であった[3]。刊行時は無名の若手研究者だったこともあり反響は少なかったが、のちに評価され数度複刊された[4]。本書に対抗する形で溝口雄三をはじめとする後続の研究が出た[3]。 その後、西洋の影響を直接受けた清末民初の中国思想についても研究対象とし、『中国革命の先駆者たち』(1965年)や、『新儒家哲学について:熊十力の哲学'』(1987年)を著した。
また陽明学の前提として朱子学を捉え、その研究成果として、訳注書『大学・中庸』(1967年)や入門書『朱子学と陽明学』(1967年)を著した。晩年・没後に論考集『中国の伝統思想』『中国思想史の研究』や共同研究が刊行された。日本の中国学界では一般に、宋明理学は「中国史」でなく「中国哲学」の専門家の管轄とされるが、島田は「中国史」の専門家としてこれを研究した[4]。また、中江兆民や三浦梅園など日本思想史も扱った。 著作著書訳注など
関連資料
脚注
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