倉又寿雄
倉又 寿雄(くらまた ひさお、1958年12月1日 - )は埼玉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(右サイドバック[5])。武南高校[4]及び日本体育大学卒業[4]。 来歴武南高等学校から日本体育大学体育学部体育学科に進学。サッカー部で主将を務め、1980年には関東大学リーグでの1部昇格に貢献[6]。 1981年に日本鋼管(後にNKK)に入社。1年目から同社サッカー部のレギュラーに定着し[6]、同年の日本サッカーリーグ2部及び天皇杯で優勝(天皇杯では初優勝)を果たす。1982年には日本代表にも選出された[4][5]。1992年に現役を引退。 1993年からはNKKサッカー部のコーチに就任したが、同年で廃部となったため、当時水面下でJリーグ加盟を画策していた東京ガスサッカー部に招聘され、1994年からコーチとして出向した(NKKと東京ガスに業務上の密接な関連があったことから、NKKに籍を置いたまま出向することができた)[6]。同年末には大熊清の監督就任に伴い、ヘッドコーチに昇格。その後プロ化したFC東京も含め、2001年末に大熊が退任するまでの7年間に渡って大熊・倉又のコンビは続いた。 2002年には原博実監督の下でヘッドコーチに留任し、チームの継続性確保に貢献。縁の下の力持ちとしてチームに欠かせない存在(長澤徹談)だった[7]。2004年にはJFA 公認S級ライセンスを取得。 2006年、アレッシャンドレ・ガーロの監督就任に伴いトップチームを離れ、ユース年代の育成を担うべくFC東京U-18の監督に就いたが、同年8月のガーロ解任によってトップチームの監督に就任することになった[8][4]。第18節より指揮し立て直しを図ったが[9]、J1残留を確保するに留まった。シーズン終了後に監督を退任[10]。 2007年からはFC東京U-18の監督に再任[11]。前線からの強烈なプレッシングによるサッカーで同年のJユースカップ優勝を始めとして各大会で好成績を収め、トップチームに選手を輩出した。2010年にはFUJI XEROX SUPER CUP 2010 フレンドリーマッチ「U-18Jリーグ選抜 vs 日本高校サッカー選抜」のU-18Jリーグ選抜の監督に選出された[12]。2011年限りで退任し、翌2012年からは育成部長を務めた[13]。 2013年より鈴木政一監督の後を継ぎ[1]、母校日本体育大学サッカー部(関東大学リーグ所属)の監督を務めた[14]。攻守の切替えとハードワークを重視し[1]、同年の東京都サッカートーナメントでは準優勝。 2015年、立教大学体育会サッカー部監督に就任。基本技術を大事にする指導で関東大学リーグ復帰に向けた体制作りを続けた[2]。 2017年、監督就任3年目、参入戦での激戦の末に立教大学41年ぶりの関東大学リーグ復帰を果たす。 所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
代表歴指導歴
監督成績
タイトル
脚注
関連項目外部リンク
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