伊達宗徳
伊達 宗徳(だて むねのり)は、江戸時代後期の大名、明治時代の華族。最終的な位階爵位は正二位侯爵。 伊予国宇和島藩第9代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。明治以降華族に列し、華族令施行により伯爵となり、明治24年(1891年)4月23日に、養父・伊達宗城の勲功により侯爵に陞爵する。 幼名は扇松丸。別名に紀周(ただちか)、宗周(むねちか)。号は馨山。。 生涯第7代藩主・伊達宗紀の三男として生まれる。 天保8年(1837年)、従兄にあたる第8代藩主・宗城の養嗣子となり、安政5年(1858年)11月23日に宗城が井伊直弼の安政の大獄で隠居処分となったため、家督を相続した。藩主就任後も実権は宗城に掌握されていたが、それでも宗城の改革路線を引き継いで専売制の強化、西洋式軍制の導入、教育などの普及など様々な改革で成果を挙げている。しかし、やはり宗城の存在は大きく、宗徳はお飾りの立場に近かった。 1891年(明治24年)4月23日に侯爵に陞爵し[2]、貴族院侯爵議員となる[1][3]。 明治38年(1905年)11月29日、76歳で死去した。法号は霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士。墓所は愛媛県宇和島市野川の大隆寺。 栄典系譜
井上三郎 ┃ ┣━━━井上光貞 ┃ ┃ 井上馨━━千代子 ┃ ┃ 伊達宗徳━━二荒芳徳 ┃ ┃ ┏明子 ┣━━┫ ┃ ┗治子 北白川宮能久親王━━━拡子 ┃ ┃ 石坂泰三 ┏石坂一義 ┃ ┃ ┣━╋石坂泰介 ┃ ┃ 織田一━━雪子 ┣石坂泰夫 ┃ ┣石坂泰彦 ┃ ┣石坂信雄 ┃ ┣智子 ┃ ┗操子 ┃ 霜山精一━━霜山徳爾
脚注参考文献
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