主題と変奏 (フォーレ)主題と変奏(しゅだいとへんそう、フランス語: Thème et variations) 嬰ハ短調 作品73は、近代フランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845年 - 1924年)が作曲したピアノ曲。 1895年に作曲され、その前年に書かれた夜想曲第6番(作品63)、舟歌第5番(作品66)と並んで、フォーレのピアノ作品中の傑作のひとつとされている[2]。 作曲の経緯『主題と変奏』は1895年に作曲された[3][4]。フォーレ50歳のときである[5]。 この年の夏、フォーレは「ル・フィガロ紙」の連載執筆者として候補に挙げられたが、エミール・ゾラに庇護されたアルフレッド・ブリュノーにその座を奪われており[4]、9月、友人で夜想曲第6番を献呈した文学者・哲学者ウジェーヌ・デクタルに宛てた手紙でフォーレは次のように述べている。 ここで言及されている「ピアノ変奏曲」が『主題と変奏』であり、このことから、この作品は夜想曲第6番(1894年)、舟歌第5番(同年)につづき舟歌第6番(1895年)と前後するように書かれたものと考えられる。また、1894年から翌年にかけて、フォーレは宗教合唱曲の作曲を5曲手がけており、このことも『主題と変奏』の構成方法や内容に影響を与えたという指摘がなされている[5]。 なお、従来この作品の作曲年については出版年である1897年とする文献が多く[5]、フォーレの音楽論を書いたフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが同じく1897年としている[6]ほか、ピアニストのアルフレッド・コルトーは1896年の作曲としている[5]。 初演・出版1896年12月10日、ロンドンのセント・ジェームズホールで開かれた「フォーレ・フェスティバル」においてレオン・ドゥラフォスの独奏によって初演。演奏会にはフォーレ自身も参加しており、ピアノ四重奏曲第2番のピアノを担当したほか、ドゥラフォスが2台のピアノ用に編曲したフォーレのヴァルス・カプリス第2番と第4番ではフォーレとドゥラフォスが共演した[3][7][5]。 初演者のドゥラフォスは、舟歌第5番の初演者でもある[5]。 『主題と変奏』は、フォーレの友人で弟子のテレーズ・ロジェに献呈された[4]。 フォーレはロジェに宛てた手紙で、ロンドン初演の様子を「聴衆は、初演作品に対してもそれほど退屈している様子ではなかった」と伝えている[7]。 楽譜は1897年、ロンドンのメツラー社とパリのアメル社から出版された[4][5]。 この作品のフォーレの自筆譜は見つかっていない[8]。 解説『主題と変奏』は、主題とそれに基づく11の変奏からなる、フォーレ唯一の変奏曲である[3]。 ロマン派音楽の大規模な変奏曲の部類に属しており[6]、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスらの系譜に連なる作品である[4]。 コルトーは、この作品を次のように賞賛している。
付点音符の使用や低音部に現れるオクターヴ、伴奏形での弱拍部での打音などにおいて、『主題と変奏』はしばしばシューマンの『交響的練習曲』と比較される[4]が、現在知られている資料にフォーレがシューマンを想定して作曲したという事実を示すものは見あたらない[5]。 フォーレ研究家のネクトゥーやオーリッジは『主題と変奏』の第6変奏や第10変奏にシューマンを思わせる部分があると指摘する[5]一方、ジャンケレヴィッチは「(『主題と変奏』の)嬰ハ短調に基づく全曲の構成はシューマンの交響的練習曲を漠然と感じさせる」[6]、クライトンは「(交響的練習曲との類似は)全体の印象の問題であって個々の部分ではない。フォーレの最後の変奏は内的なエピローグで広い意味でシューマン的だが、シューマンの拡大されたフィナーレとはまったく異質なものである。」と述べている[3]。 また、ジャンケレヴィッチは、この曲が持つ浄化、沈思、平静といった性格について、嬰ハ短調の音階の中でニ音(第II度音を半音下げた形)の働きによって嬰ヘ音上の下属和音を含む「ナポリ6の和音」が形成され、作品全体を包み込む旋法的な雰囲気を生み出していることがその理由だと指摘している[6]。 なお、『主題と変奏』は、1910年からパリ音楽院の卒業試験用の課題曲として採用されており、この曲を弾いて一等賞を獲得したピアニストにクララ・ハスキルがある[2]。 構成主題と11の変奏からなる。主題から第10変奏までは主調の嬰ハ短調であり、最後の第11変奏に至って同主長調の嬰ハ長調に転じる。フォーレは各変奏間の緊張と弛緩の対照を考えて全体を設計している[3][9]。
編曲指揮者のデジレ=エミール・アンゲルブレシュト(1880年 - 1965年)による『主題と変奏』のバレエ用管弦楽編曲版があり、フォーレの没後1927年にパリ・オペラ座で『月の光』というタイトルでカリナ・アリによって踊られた。しかし、ネクトゥーによれば、この試みは説得力に欠けており、やがて人々から忘れられていった[4]。 関連項目脚注
参考文献
外部リンク
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