三浦義次
三浦 義次(みうら よしつぐ)は、江戸時代後期の大名。美作国勝山藩7代藩主。美作勝山藩三浦家12代。 生涯文政9年(1826年)、第5代藩主・三浦誠次の三男[1]として生まれる。 天保10年(1839年)、兄で先代藩主の峻次が嗣子なくして死去したため、その跡を継いだ。藩政に尽くしたが、弘化4年(1847年)7月に大水害を受けて藩内が大きな被害を受けるなど、その治世は多難を極めた。 嘉永元年(1848年)11月22日、家督を養嗣子の朗次(越前丸岡藩主有馬徳純の子、有馬誉純養子)に譲って隠居[1]。明治16年(1883年)6月23日に58歳で死去した。 系譜
正室は津山藩主・松平斉民(将軍徳川家斉の子)の娘。[要出典] 『平成新修旧華族家系大成』に夫人の記載はなく、実子は以下が記されている[1]。 鉚太郎は岡山藩家老家である土倉家の養子となったがのちに離縁。その後、光三郎が土倉家を継ぐ。光三郎は明治14年(1881年)男爵に叙せられた。 脚注参考文献
外部リンク |