三浦明次
三浦 明次(みうら あきつぐ)は、三河国西尾藩2代藩主、美作国勝山藩初代藩主。美作勝山藩三浦家6代。 生涯三河刈谷藩主・三浦明喬の三男。享保17年(1732年)2月28日、明喬の跡を継いだ叔父の三河西尾藩主・三浦義理の養嗣子となり、宝暦6年(1756年)8月24日に家督を継ぐ。 明和元年(1764年)6月21日、西尾から美作国2万3000石(真島郡92村、大庭郡1村)に移封され、勝山藩を立藩した[1]。高田城跡に勝山城を築いた。三井和親に書を学んだ優秀な書家であり、徳川将軍家や尾張徳川家の師範を務めたことがある。 安永元年(1772年)、養嗣子の矩次に家督を譲って隠居した。矩次は先代義理の長男で、血縁上では明次の従弟にあたる。 天明6年(1786年)10月に諱を其次(ことつぐ)と改めている。寛政9年(1797年)12月5日、72歳で死去した。 系譜略系図美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
脚注
参考文献
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