三浦顕次
三浦 顕次(みうら たかつぐ[1][2]/あきつぐ[2])は、江戸時代幕末期の大名。美作国勝山藩(真島藩)第10代(最後)の藩主。美作勝山藩三浦家15代。号は旭州。 生涯弘化4年(1847年)、第9代藩主・三浦弘次の長男[2]として生まれる。 父が病弱だったため、第一次長州征伐・第二次長州征伐に出陣している[2]。父は佐幕派だったが、顕次は勤皇派であり、慶応3年(1867年)からは津山藩(松平慶倫)・備中松山藩(板倉勝静)との佐幕同盟を脱している[2]。慶応4年(1868年)5月6日、父の隠居を受けて正式に家督を継いだ[1]。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。また、藩名を真島藩に改めた[3]。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。 明治17年(1884年)、華族令施行に伴い子爵に叙せられる。明治28年(1895年)9月11日、49歳で死去した。 系譜『平成新修旧華族家系大成』には、子として1男3女を載せる[1]。男子は家督を相続した三浦基次(1872年 - 1946年)。長女[4]の「ちょう」[5]は澤宣元(男爵)夫人。 基次は1934年に隠居、基次の子の義次[6](1904年 - 1985年)のときに華族制度廃止を迎えた[1]。 脚注参考文献
外部リンク
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