三木町 (兵庫県)
三木町(みきちょう)は、兵庫県美嚢郡にかつてあった町である。 位置三木町は美嚢郡の中心部であり、美嚢川を中心に開けている町である。 概要美嚢郡の中心であり、戦国時代には豊臣秀吉が三木合戦をしたことで知られ、三木城の城下町で栄えていた街である。1617年に三木城が廃城になってからは閑散としていたが、その後、三木街道ができ、神戸・明石・舞鶴に行く交通の要として発達し、さらには金物が盛んになっていき、美嚢郡で最も大きい町になり、人口密度もこの時代には珍しく2000人を超えていた。 沿革三木町発足前
三木町発足後
緯度と経度町内には日本標準子午線に当たる東経135度の通過地であり、恵比須駅の近くに標準時子午線標石が設置されている。 地形標高40mの播磨平野に位置している。 山
河川観光商店行政当町は大塚町・芝町・平山町・東条町・滑原町・上町・中町・明石町・下町・新町であり、この地域の人たちは町方と呼ばれていたため、農村とは区別されていた。 公共施設
祭事・催事歴代町長
災害三木町域を西に流れる美嚢川水系は、豪雨に基づく増水・氾濫によって、過去行くたびにか洪水の害を家屋や田畑にもたらした。 過去の水害1642年・1703年8月18日・1749年7月1日・1837年5月・1857年・1861年・1866年8月と水禍が起きている[2]。 昭和の水害1932年7月2日の梅雨末期の豪雨による、二位谷池・福田池などの決潰がもたらした大きな水害である。午前7時40分、突如押し出した鉄砲水によって、芝町・平田山の南浦から下滑原一帯では、死者33人、家屋流出47棟の惨禍を生じた。その他、永代池の決潰や三木山国有林の山崩れによって、市街地の各所に多くの被害を出している。また、農村部でも、美嚢川水系の反乱や溜池の決潰により、家屋・田畑・農作物等にあまたの被害が出た。この水害を記念にし、上の丸町に当日の悲惨さを後世に伝えるために記念碑が建立された。この水害の後に1945年10月に美嚢川の氾濫による水災が起きた[3]。 三木町での昭和の水害の被害状況
教育高等学校中学校
小学校鉄道合併三木町と久留美村との合併について戦前の1935年代から「美嚢川流域に位置する同一の地形のもとに人情風俗その軸を一にしてをり」・「経済関係・交通・その他住民生活一体をなして」と言われており、三木町と久留美村は合併に対して論議をされており、すでに合併条件が出来ていた。しかし、戦中の1943年、第二次世界大戦になると事業簡素化の立場から町村合併が推奨されて、合併機運が起こり、この動きはその後の終戦による混乱で「当分ノ間特別ノ必要アルモノノ外、特二積極的二之ヲ行ハザル様」方針が改められたため、沙汰止みとなり、合併の件が白紙になった。終戦後の1946年には再び合併の動きが起こり、両町村の合併に関する委員会も結成されて、双方の委員が調印をする運びにまで進んだが久留美村の一部の村民から反対運動がおこり、1947年3月24日には三木町から「現下の諸事情により察し一度白紙に帰り、現在までの交渉を打ち切ることにいたしたい」と書面が提出されて、合併の件が2回目の白紙になったが、その年の12月には三木市制施行運動が当町で起こり、翌年の1948年2月には三木市制促進期成同盟が結成されたが、1950年になると久留美村との合併の件が持ちこたえだされて、11月19日には当町から久留美村に合併の申し入れがなされ、久留美村はこれを受理し、話し合いが順調に進んでいき、翌年の1951年2月12日には三木町公民館で合併調印式が行なわれ、ついに3月15日に久留美村全域を編入し、人口が2万人近くになり、面積が合併前の3倍近くに膨れ上がった。 脚注参考文献
関連項目 |
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