ヴィルヘルム・セバスチャン
ヴィルヘルム・セバスチャン(Wilhelm Sebastian、1903年1月17日 - 1978年10月30日)は、ドイツのレーシングドライバーであり、レーシングカーの整備士である。 経歴チーム・カラツィオラ![]() 1931年、ルドルフ・カラツィオラのライディングメカニック(コ・ドライバー)として、イタリアのミッレミリアに出場する。カラツィオラは前年までダイムラー・ベンツのワークスドライバーだったが、経営不振に陥った同社はワークス活動を休止してしまったため、カラツィオラはプライベーターとしてこのレースに参戦した、このレースは長距離レースであることから、セバスチャンがコ・ドライバーになったという経緯である。このレースでセバスチャンはメルセデス・ベンツ・SSKLのステアリングホイールを支えるなどしてカラツィオラの運転をサポートして、カラツィオラとともに外国人としては初めてミッレミリアの優勝者として名を刻んだ。 アウトウニオン1932年にアウトウニオンが設立されると、セバスチャンは同社が設立したレーシングチームでドライバー兼メカニックとして働き始めた。 1934年のグランプリ・シーズンからアウトウニオンがグランプリへの参戦を始めるに際して、同チームのリザーブドライバーに任命され、コッパ・アチェルボ(ペスカーラ)、イタリアグランプリ(モンツァ)、チェコスロバキアグランプリ(マサリクリンク)といった数レースに参戦した。コッパ・アチェルボでは5位、イタリアグランプリとチェコスロバキアグランプリでは7位になるという結果を残したが、当時のヨーロッパ選手権(1935年から開催されることになる)を戦えるほどの速さは持っていなかったことから、ドライバーとしてのキャリアはこの年で終了となる。 ヴィルヘルム・セバスチャンの弟であるルートヴィヒはアウトウニオンでチーフメカニックをしていたことから、彼もまたメカニックとしてアウトウニオンに残り、1935年シーズンは新人のベルント・ローゼマイヤーの担当となり、その後も彼の担当を任された。 1938年1月28日、アウトバーンのフランクフルト - ダルムシュタット間(現在のA5線)で速度記録への挑戦が行われた際、吹き渡る風が強いことに気付いたセバスチャンはその日の出走を中止するよう再三に渡ってローゼマイヤーに進言したが、それが聞き入れられることはなく、ローゼマイヤーは速度記録挑戦中に高速走行する車両が横風にあおられて走路外に飛び出し、事故死した[1]。 エピソードカルッセル→詳細は「ルドルフ・カラツィオラ § カルッセルの始まり」を参照
ニュルブルクリンク北コースの名物コーナーである「カラツィオラ・カルッセル」について、一般的にルドルフ・カラツィオラが最初にそこを走行したとされているが、ノイバウアーは自伝の中でレース前にそこで実験を行って「溝」を使った走行が可能だと明らかにしたのはセバスチャンだとしている[2]。 セバスチャンによる諜報活動チーム・カラツィオラの縁から、セバスチャンはアルフレート・ノイバウアーをはじめとするダイムラー・ベンツの関係者とも親交があり、ノイバウアーによれば、アウトウニオン在籍時にメルセデスチームにスパイを仕掛けていたという[3]。
いずれも、メルセデス・ベンツとアウトウニオンが争っていた時代から20年ほど経った頃にセバスチャンがノイバウアーに語ったという内容で、真偽は不明だが、ノイバウアーはこの話を聞いて、諜報活動など当時の自分には思いもつかなかったことでむしろ感心したということを自伝に記している[3]。 他にも、メルセデスチームが秘密裏に開発していたW165の存在をセバスチャンがなぜか知っていて、W165のテスト日にホッケンハイムリンクに忍び込んで現れたり[3][5]、メルセデスチームが速度記録車(W125レコルトワーゲン)に密かに搭載していた氷を使った冷却装置をアウトウニオンもなぜか同時に採用していたりするなど[1]、ノイバウアーはスパイの存在を示唆する記述を残している[5]。 レース戦績AIACRヨーロッパ選手権
脚注出典
参考資料
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