ロベール・デスノス (フランス語 : Robert Desnos , 1900年 7月4日 - 1945年 6月8日 )は、フランス の詩人 、放送作家 、映画 ・音楽評論家 、ジャーナリスト 、ホロコースト 生還者(しかし感染していたチフス により解放直後に死去)。ダダイスム 、シュルレアリスム の運動に参加し、アンドレ・ブルトン に「シュルレアリスムの預言者」と称されたが、1929年の第二宣言 により離反。1933年に『ファントマ 』新シリーズの宣伝のためにアレホ・カルペンティエル 、クルト・ヴァイル 、アントナン・アルトー と共同で制作した「ファントマ大哀歌」が成功を収めたことを機に、ラジオ番組 の制作、音楽・映画評論の執筆に専念。対独レジスタンス運動 に参加し、ゲシュタポ に逮捕され、テレージエンシュタット 強制収容所(チェコスロバキア )の解放直後に死去した。
生涯
背景
1900年7月4日、ロベール・ピエール・デスノスとしてパリ 11区 リシャール・ルノワール大通り (フランス語版 ) 32番地に生まれた[ 1] 。ロベール・ピエールは音が「ロベスピエール 」に通じるため、後のシュルレアリスムの催眠 実験で「ロベスピエール」と何度も書き付けるなど、この革命家 と「神秘的な結び付き」があると主張していた[ 2] 。
デスノス一家はパリ2区 レ・アール地区のサン・マルタン通り (フランス語版 ) 、次いで4区 のロンバール通り (フランス語版 ) 、リヴォリ通り (フランス語版 ) へ越したが、いずれも商人 や職人 が多く住むパリの下町 で、父リュシアンはエミール・ゾラ が「パリの胃袋 (フランス語版 ) 」と呼んだ中央市場 (レ・アール (フランス語版 ) )の卸売 業者で、2区の助役を務めていた[ 3] [ 4] [ 5] 。
レオン・レルミット 作《レ・アール》(「パリの胃袋」中央市場、1895年、プティ・パレ 蔵)
少年デスノスは、『プティ・パリジャン (フランス語版 ) 』紙や『プティ・ジュルナル』紙の付録として刊行された漫画新聞『レパタン (フランス語版 ) 』や『ラントレピッド (フランス語版 ) 』、ギュスターヴ・エマール (フランス語版 ) の冒険小説 や大衆小説 を愛読した[ 3] 。とりわけ、後に彼の仕事に直接影響することになる怪盗 ファントマのシリーズ、一世を風靡したピエール・スーヴェストル (フランス語版 ) とマルセル・アラン (フランス語版 ) の大衆小説『ファントマ』が新聞に連載されたのは1911年から13年にかけてのことであった[ 6] 。また、映画 の創成期であったため、『ファントマ』をはじめとし、これまで本の世界にしか存在しなかった冒険を視覚的に体験できるようになった。デスノスはこのように、子どもの頃から紙媒体以外の音(声)や映像の世界に親しんでおり、後に放送作家や映画評論家としても活躍する彼の背景となっている[ 3] 。
父は商業 を勉強して家業を受け継ぐことを望んでいたが、早くから詩人を志してコレージュを退学。職を転々としながら、独学 で教養を身につけ、特にヴィクトル・ユーゴー の小説 やシャルル・ボードレール の詩 を耽読した[ 7] 。
象徴主義の影響
1919年からジャン・ド・ボンヌフォン (フランス語版 ) に師事し、秘書 を務めた。ボンヌフォンは、「反教権主義 的カトリック教徒 」を自称して政教分離 を支持し、また、出版社 を設立して複数の文学雑誌を主宰した人物である[ 4] [ 5] 。同年、前衛雑誌『トレデュニオン』に初めて数篇の詩を発表した。ギヨーム・アポリネール の影響が伺われる詩であった[ 7] 。また、「文学 、政治 、芸術 、ユーモア 」を副題とする社会主義 的な雑誌『トリビューヌ・デ・ジューヌ』[ 8] などにも発表し始めたが、デスノスの初期の詩は、アポリネールに限らず、ボードレール、ローラン・タイヤード (フランス語版 ) 、ジェルマン・ヌーヴォー (フランス語版 ) 、アルチュール・ランボー などの高踏派 、象徴主義 の影響の強いものであった[ 3] 。
第一次大戦 後のパリでは新しい芸術・文学運動が次々と起こったが、なかでも重要なのは、既成の価値の破壊やブルジョア 的な社会秩序の壊乱を目指すダダイスムの運動であり、アンドレ・ブルトンと1919年に活動の場をチューリッヒ からパリに移したトリスタン・ツァラ が中心的な役割を果たしていた。この頃出会ったほぼ同い年の詩人で、1920年にブルトンに出会ったばかりのバンジャマン・ペレ [ 9] を介して運動に参加しようとしたが叶わず、おまけに徴兵 年齢に達していた。デスノスは兵役に服し、オート=マルヌ県 ショーモン の部隊、次いでモロッコ の部隊に配属された[ 3] 。
シュルレアリスム
マン・レイ撮影のマルセル・デュシャンの女装肖像写真《プローズ・セラヴィ》(1921年、フィラデルフィア美術館 蔵)
1年間の兵役を終えてパリに戻ったとき、すでにダダイスムの運動は終焉に向かっていた。主な原因はブルトンとツァラの対立、決裂であったが[ 10] 、一方で、ブルトン、ルイ・アラゴン 、フィリップ・スーポー が1919年3月に創刊し、一時はダダイスムの機関誌でもあった文学雑誌(むしろ反文学雑誌)『リテラチュール (文学)』が次第にダダイスムから離れて新たな方向を模索し始めていた。デスノスは1922年9月の『リテラチュール』誌第4号から詩を発表し始め、1924年6月の最終号(第13号)まで毎回寄稿した。特筆すべきは同誌にマルセル・デュシャン が(マン・レイ 撮影のデュシャン女装 肖像写真《プローズ・セラヴィ》で知られる)「ローズ・セラヴィ (プローズ・セラヴィ)」の偽名でアフォリズム や言葉遊戯 の詩を書いていること、そしてデスノスがこれを受けて「プローズ・セラヴィ」と題するアフォリズムや言葉遊戯の詩を書いていることである。たとえば、「賢人(サージュ)の解決策(ソリュシオン)とは、(書物の)ページ(パージュ)を汚すこと(ポリュシオン)なのか (La solution d’un sage est-elle la pollution d’un page ? )」、「プローズ・セラヴィは知りたいと思う、愛・性行為(アムール)というこのハエ取り紙 (コラムーシュ)は、柔らかい布団(モルクーシュ)を硬くするものなのかどうか (Rrose Sélavy voudrait bien savoir si l’amour, cette colle à mouches, rend plus dures les molles couches. )」などである[ 11] [ 12] 。
さらに重要なのは、1922年11月の『リテラチュール』誌第6号に「霊媒の登場」と題する報告書が掲載されたことである[ 13] 。これは同年9月に行われた催眠実験の報告書で、デスノス、ペレ、ルネ・クルヴェル が被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという霊媒 実験を模した試みであった[ 14] 。ブルトンとスーポーはすでに1919年にフロイト の自由連想法 の影響を受けた自動記述 、すなわち、理性 に制御されない純粋な思考の表現を試み、翌1920年に自動記述による『磁場』を発表していた[ 15] [ 16] 。デスノスは遅れて参加したとはいえ、自動記述、催眠実験、夢 の記述などシュルレアリスムのあらゆる試みにおいて自由自在にとめどなく語り、詩を書き、素描を描いた。しかもそれらは音楽性のある表現であった[ 3] 。ブルトンは、デスノスの「デペイズマン の力」を称え[ 17] 、「シュルレアリスムの預言者」であるとし[ 7] 、シュルレアリストのなかでも「最もシュルレアリスムの真実に近づいた人間」だと評した[ 2] 。
『リテラチュール』誌が終刊となった1924年は、シュルレアリスムの運動が正式に発足した年である。パリ7区 のグルネル通り (フランス語版 ) にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表され、さらに同年末には文芸誌『シュルレアリスム革命 』が創刊された。この運動の重要なテーマをすべて取り上げ[ 18] 、ブルトン、アラゴン、スーポー、クルヴェル、ペレのほか、ポール・エリュアール 、アントナン・アルトー 、ミシェル・レリス 、レーモン・クノー 、ジャック・バロン (フランス語版 ) 、ピエール・ナヴィル らが主な寄稿者で、芸術家ではマックス・エルンスト 、アンドレ・マッソン 、ジョルジョ・デ・キリコ 、ルネ・マグリット 、フランシス・ピカビア 、マン・レイ、デュシャンらが作品を掲載した[ 19] 。本誌は1929年12月15日の第12号をもって終刊となったが、デスノスは創刊号から第11号まで毎回寄稿し、その多くが『リテラチュール』誌掲載の詩と同様に言葉遊戯を駆使したユーモラスなものである。同誌掲載の詩は、巖谷國士 編『シュルレアリスムの箱』所収の「亡霊の日記」を除いてほとんど邦訳されていないが、1927年に代表作の散文『自由か愛か』を発表し、1930年にはそれまで雑誌に発表した詩を『肉体と幸福』として出版した(著書参照)。
一方、アラゴン、ブルトン、エリュアール、レリス、ペレ、デスノスらのシュルレアリストは次第に共産主義 に傾倒し、アンリ・バルビュス が1919年に発表した『クラルテ』[ 20] を契機として共産主義知識人らが起こした国際的な反戦 平和運動 の機関誌『クラルテ』[ 21] に寄稿するようになった。デスノスは1925年11月の第78号に「シュルレアリスムの革命的な意味」と題する記事を掲載している[ 22] 。しかし、共産主義との関わりはこの後、次第に運動内の分裂の契機となり、ブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレが共産党 に入党したのに対して、デスノスはスーポー、アルトーとともに(共産主義の思想とは別に)政党 に関わることは拒否し[ 23] 、シュルレアリスムの活動と並行して、ジャーナリストとして、『パリ・ソワール (フランス語版 ) 』紙、『ル・ソワール』紙、『パリ・マティナル』紙、『ル・メルル』紙などの大衆紙にも寄稿し始めた[ 7] [ 24] 。
ブロメ通りバル・ネーグル -「謎の女」イヴォンヌ
イヴォンヌ・ジョルジュ(1928年頃、Fonds Jacques Doucet)
デスノスはモンパルナス (パリ15区 )ブロメ通り (フランス語版 ) に住んでいた。モンパルナスは当時、1900年代から1910年代にかけて前衛芸術・文学の中心であったモンマルトル から活動の拠点を移した前衛芸術家・文学者(あるいはボヘミアン)が多く住む地区であったが、とりわけ、ブロメ通りにはパブロ・ガルガーリョ とジョアン・ミロ の共同のアトリエ やアンドレ・マッソンのアパートに多くの芸術家や文学者が訪れていた。デスノスは、アンティル 出身の黒人 が多く集まるダンスホール (キャバレー )兼ジャズ・クラブ で、狂乱の時代 と呼ばれる1920年代 に全盛を極めたブロメ通り33番地の「バル・ネーグル (フランス語版 ) 」(現「バル・ブロメ」)からほんの数メートルのところに住んでいたため、「バル・ネーグル」の常連であり[ 25] 、ここで、ベルギー生まれの歌手のイヴォンヌ・ジョルジュ (フランス語版 ) と出会った。「坂口安吾 が絶賛し、コクトーやサティ を刺激し」、早川雪洲 とも共演したことがあるという女性だが[ 26] 、1930年に34歳で夭折した。現在残っているアルバムは1枚だけだが、デスノスは彼女の声に魅せられて音楽評論を書き、詩に歌っている[ 27] 。とりわけ、「あまりにきみを夢見たので」(堀口大學 訳『デスノス詩集』所収)、「謎の女へ」に歌われる女性であり[ 28] 、マン・レイの映画『ヒトデ(海の星)』(1928年)の脚本は、デスノスがこの「謎の女」について書いた詩を翻案したものである。15分ほどのこの無声映画 は、マン・レイの愛人「モンパルナスのキキ」(アリス・プラン )が「謎の女」を演じ、デスノスも最後の場面に姿を見せる[ 29] [ 30] 。
シュルレアリスム運動からの離反
一方で、上述の共産党入党をめぐってシュルレアリスム運動内に分裂が生じ、他方で、デスノスのジャーナリズム 活動や彼の詩の叙情的な傾向がブルトンらに批判されたことから、デスノスは次第にシュルレアリスムから離れて行った。こうした分裂は、1929年にシュルレアリスムの政治的な立場を明確にした第二宣言が発表されたときに決定的なものとなり、デスノスのほか、アルトー、スーポー、レリス、マッソン、ピカビアが脱退した[ 31] 。
1930年にはジョルジュ・バタイユ を中心に元シュルレアリスト20人が参加して、ブルトンと彼を中心とするシュルレアリスムを批判する小冊子『死骸 (英語版 ) 』が刊行された。20人のうち5人は、これもバタイユとトロカデロ民族学博物館(現人類博物館 )の副館長ジョルジュ・アンリ・リヴィエール (フランス語版 ) によって1929年4月に創刊された考古学 、美術、民族誌 学の学術雑誌『ドキュマン (フランス語版 ) 』の寄稿者であった[ 32] [ 33] [ 34] 。ブルトン批判の『死骸』寄稿者、かつ、『ドキュマン』誌寄稿者であったシュルレアリスム離反者は、デスノス、レリスらである。とはいえ、デスノスは、この頃、民族学 者としても活躍し始めていたレリスと違って、『ドキュマン』誌に頻繁に寄稿していたわけではない。しかも、同誌は早くも翌1930年に終刊となった。
音楽・映画評論、庶民文化
デスノスは以後、音楽評論、映画評論を多く書くようになり、また、詩作は続けていたものの、その傾向は生まれ育った下町 の文化や民衆言語への関心に基づく、より庶民的なものへと変わっていった[ 35] 。
1928年のキューバ 旅行は一つの転機とあった。ルンバ のようなパリでは馴染みのない音楽(リズム、音)に惹かれ、また、アレホ・カルペンティエル と出会ったことで政治への関心を深めた。カルペンティエルは同年、フランスに亡命し、以後、活動を共にすることになる[ 36] 。
デスノスが1926年から1927年にかけて書いた550行の長詩『愛なき夜ごとの夜』は、音楽的な要素の強い抒情詩 であり、1930年にアンヴェール で刊行されたが、販売はせず、1942年の『財産』に収められることになるが、この詩の一部にイヴ・モンタン が曲を付けて歌っている[ 37] 。また、アルテュール・オネゲル やアンリ・クリケ=プレイエル (フランス語版 ) の映画音楽 の歌詞も書いている。
デスノスとユキ(1933年、Archives Desnos)
1929年 の世界恐慌 の影響で、デスノスは生計を立てるためにジャーナリズムにますます深く関わるようになった。藤田嗣治 の妻で、彼が「薔薇色の雪」のような肌からユキ と名付けたリュシー・バドゥに出会い、1931年から生活を共にすることになった。1934年に、二人はパリ6区 マザラン通り (フランス語版 ) 19番地に越し、1944年にデスノスがゲシュタポに逮捕されるまで共に暮らした。ここで毎週土曜の「マザラン通りの土曜の会」と呼ばれた集まりには多くの作家や芸術家が参加した[ 38] 。当時パリに住んでいたヘミングウェイ (アメリカ )やカルペンティエル(キューバ)が招かれたほか、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス (グアテマラ )、(エメ・セゼール 、レオポール・セダール・サンゴール とともにネグリチュード の運動を率いた)レオン=ゴントラン・ダマス (フランス語版 ) (フランス領ギアナ )など当時まだほとんど無名であった外国人作家らとも親しく、レリスは、デスノスは「普遍主義 的精神」の持ち主であったと語っている[ 39] 。
放送作家 -「ファントマ大哀歌」
デスノスとユキが住んでいたパリ6区マザラン通り19番地にある銘板 -「ゲシュタポに逮捕され、強制移送された。進歩と正義の自由への情熱に溢れた人であったがために死す」と書かれている。
1933年、フランスにおけるラジオ放送の草分けとして知られるポール・ドゥアルム (フランス語版 ) からの誘いでラジオ番組の制作や宣伝を担当。同年11月3日、『ファントマ』新シリーズの開始に伴い、「ファントマ大哀歌」を制作し、大成功を収めた。これは、大衆小説『ファントマ』の第2弾が(スーヴェストルの没後)マルセル・アランによって11月3日から『プティ・ジュルナル』紙で連載されることになり、この宣伝のために、「12場から成る連続ドラマ(演劇)」として制作されたものである。デスノスの作詞にクルト・ヴァイルの作曲、アントナン・アルトーが演出を担当してファントマの役割も兼ね、音楽監督はアレホ・カルペンティエルであった[ 40] 。新聞連載第1回の11月3日に合わせて、宣伝のためにラジオ・パリで放送された「ファントマの夕べ」は、歌手 、俳優 、朗読・演奏家約100人が参加し、準備に数週間を要するほどの大規模なものであった。「ファントマ大哀歌」の成功により、以後、デスノスはフォニリック番組(または「フォニリック・スタジオ」)という文学番組担当として正規に雇用されることになった。カルペンティエルも引き続き彼の番組の音楽を担当した。デスノスの番組は、世界各国の文化を紹介し、クラシック音楽 からシャンソン 、バラエティ番組 まで、パスカル 、ライプニッツ からお化け屋敷 、方言 まで多岐にわたるジャンルや話題を取り上げた。また、シュルレアリスム時代からの夢の記述への関心から、視聴者から夢に見た話を募り、『夢』という番組を組むなど新しい企画を取り入れたことも成功につながった[ 3] 。
一方で、ファシズム の台頭、スペイン内戦 などに危機感を募らせ、国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部「革命作家芸術家協会 」に参加し、アラゴンが編集長を務める同協会の機関誌『コミューン (フランス語版 ) 』および共産党の機関誌『ス・ソワール (フランス語版 ) (今夜)』に寄稿したり、同じくアラゴンが事務局長を務め、人民戦線 の様々な文化団体が参加していた文化会館の活動に参加したりと、次第に共産党の活動に関わるようになった[ 24] [ 41] 。また、1937年に人類博物館を創設したポール・リヴェ (フランス語版 ) が会長を務める反ファシズム知識人監視委員会 に参加[ 41] 。後に対独レジスタンス運動の一つの重要な拠点となるこの博物館の創設時には、これを記念して、デスノス作詞、ダリウス・ミヨー 作曲の「人類博物館の落成式のためのカンタータ」が発表された。
第二次大戦 - 対独レジスタンス
1939年9月に第二次大戦 が勃発し、デスノスは動員された。1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻、6月22日には独仏休戦協定 が締結され、パリを含むフランス北部はナチス・ドイツ の占領下に置かれた。1942年11月に、ドイツ軍は南部のヴィシー政権 下の自由地域 (フランス語版 ) への侵攻を開始。この間、デスノスはユキとともにパリに留まり、対独レジスタンスに参加した。ラジオ番組の制作を中断せざるを得なくなり、1940年9月にアンリ・ジャンソン (フランス語版 ) によって創刊された『オージュルデュイ (フランス語版 ) 』紙の記者を務めたが、ジャンソンはヴィシー政権を批判し、ドイツ軍の反ユダヤ主義 に抵抗して編集長 を辞任[ 42] 。ジャンソンの仕事を引き継いでしばらく記者活動を続けたが、やがて同紙を離れて地下活動に入った。ミシェル・オラール (フランス語版 ) 陸軍中佐が結成したレジスタンス・グループAGIR(Réseau AGIR )に参加し、地下出版の新聞に秘密情報を提供する役割を担い、また、ユダヤ人 やレジスタンス運動家のために身分証明書 を偽造する活動にも参加した[ 3] 。
一方、詩作を再開し、30年代に書かれた詩を編纂した『財産』(1942年)、詩と歌や音楽を組み合わせたリフレインによる『覚醒状態』(1943年)、子供向けの『お話歌』(1944年)、隠語 によるソネット 『アンドロメダとの入浴』(1944年)などを刊行。さらに、1943年にはポール・エリュアールが編纂したレジスタンスの詩人22人の作品集『詩人たちの名誉 (フランス語版 ) 』(地下出版の深夜叢書 から刊行)に「遺産」、「戦争を憎む心」、翌年刊行された第2部「欧州編」には「シャンジュ橋 の夜回り」(堀口大學訳『デスノス詩集』所収)などを偽名(リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエ、ヴァランタン・ギロワ)で発表した[ 43] 。
1944年2月22日の朝、マザラン通りの自宅でゲシュタポに逮捕された。フレンヌ刑務所 (フランス語版 ) に収容された後、コンピエーニュ (オワーズ県 )のロワイヤリュー収容所 (フランス語版 ) に移送され、4月27日に(ユダヤ人を除く)レジスタンス運動家専用の列車で[ 44] アウシュヴィッツ強制収容所 、次いでブーヘンヴァルト強制収容所 、さらにフロッセンビュルク強制収容所 、最後に2週間に及ぶ死の行進 の後、1945年4月14日にテレージエンシュタット強制収容所(チェコスロバキア)に到着した。収容所は5月9日にソ連赤軍 によって解放されたが、衰弱しきってチフス を患っていたデスノスは、6月8日に死去した[ 45] 。最期に立ち会ったのは、かつてパリで知り合った2人のチェコ人医学生であった[ 1] [ 46] 。享年44歳。モンパルナス墓地 に眠る。
なお、死亡時に医学生の一人が死亡時に発見したという「最後の詩」は、没後作品集に収められ、フランシス・プーランク が作曲するなど[ 47] 、一時は代表作の一つと見なされたが、実際には上述のイヴォンヌに捧げた「あまりにきみを夢見たので」の最後の部分と酷似しており、実際にデスノスが書いたものかどうかは不明である[ 48] 。
デスノスの遺灰を前にしたエリュアールは、「デスノスの詩は勇気の詩だ。自由の思想が凄まじい炎のように走っている」と語った[ 24] 。
著書
Rrose Sélavy (プローズ・セラヴィ), 1922-1923 - 初版『リテラチュール』誌掲載
L’Aumonyme (恵みの同音), 1923 - 初版『リテラチュール』誌掲載
Deuil pour deuil (喪には喪を), 1924
Les gorges froides (冷たい喉) , 1926
C’est les bottes de sept lieues cette phrase « Je me vois » , Éditions de la Galerie Simon, 1926 - アンドレ・マッソンによる挿絵
La Liberté ou l'Amour , 1927
Nouvelles Hébrides suivi de Dada-Surréalisme (ヌーヴェル・エブリード 、ダダ=シュルレアリスム), 1927
Langage cuit (火を通した言葉) 1929 - 初版『シュルレアリスム革命』所収
Les Ténèbres (闇), 1927
La Place de l'Étoile, 1929 - 『ル・ソワール』紙掲載の戯曲
Corps et biens (肉体と幸福), Gallimard (NRF), 1930 - 上記の詩を編纂した詩集
Sans cou (首なし), 1934
Les Hiboux (フクロウ / 人間嫌い), 1938
Fortunes (財産), 1942
The Night of loveless nights (愛なき夜ごとの夜), 1930 - ジョルジュ・マルキーヌ (フランス語版 ) による挿絵
État de veille (覚醒状態), R.-J. Godet, 1943 - 詩集
Le vin est tiré.. . (身から出た錆), Gallimard (NRF), 1943 - 小説
Le Legs (遺産), Ce cœur qui haïssait la guerre (戦争を憎む心) - ポール・エリュアール編『詩人たちの名誉』所収 - 深夜叢書から地下出版、リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエの偽名による - 1943
Le Veilleur du Pont-au-change (シャンジュ橋の夜回り) - 『詩人たちの名誉(欧州編)』所収 - 深夜叢書から地下出版、ヴァランタン・ギロワの偽名による - 1944
「両替橋の夜警番 」『デスノス詩集 』(堀口大學訳、彌生書房 、1978年)所収
Chantefables , 1944 - 児童文学 作品
Rue de la Gaité. Voyage en Bourgogne. Précis de cuisine pour les jours heureux (ゲテ通り、ブルゴーニュへの旅、幸せな日々のための料理概要) - リュシアン・クートー (フランス語版 ) による挿絵
Les Trois solitaires. Œuvres posthumes, nouvelles et poèmes inédits (3人の隠者 ― 没後出版作品、未発表の短編・詩), Éditions Les 13 épis, 1947 - イヴェット・アルド (フランス語版 ) による挿絵
Domaine public (パブリックドメイン), Gallimard (NRF), 1952
De l'érotisme , 1953 ; Gallimard, Collection « L'Imaginaire », 2013 - 新版はアニー・ル・ブラン (フランス語版 ) による序文
『エロチシズム 』澁澤龍彦 訳、ユリイカ 、1958年。のち「翻訳全集」河出書房新社 (ジャック・ドゥセ氏への手紙 / 序言 / 定義への試み / サド以前のエロチシズム / 古代の作家たち / サド以前のエロチシズム(続) / 近世の作家たち / サドと同時代の作家たち / マルキ・ド・サド の啓示 / 十九世紀の諸作家 / 今日のエロチシズム)
『エロティシズム 』松本完治訳、エディション・イレーヌ、2021年。新版からの訳書
La Complainte de Fantômas (ファントマ哀歌), 1954
Mines de rien (素知らぬ振り), 1957
Calixto suivi de contrée (カリスト、地方), 1962
Cinéma (シネマ), 1966(脚本集)
Chantefables et chantefleurs (お話歌、お花歌), 1970 - 児童文学作品
Destinée arbitraire (恣意的な運命), 1975
Nouvelles-Hébrides et autres textes (ヌーヴェル・エブリードほかのテクスト), 1978 - 1922年から1930年にわたって書かれた未発表または絶版になった散文作品を編纂
Les Rayons et les ombres. Cinéma (光線と影 ― シネマ), Gallimard, 1992 - 映画評論
Robert Desnos pour l'an 2000 (2000年のロベール・デスノス), Actes du colloque de Cerisy-la-Salle (10-17 juillet 2000) suivi de Lettres inédites à Georges Gautré (1919-1928) et à Youki (1939-1940) , Gallimard, 2000 - シンポジウムの報告書、ジョルジュ・ゴートレとユキに宛てた未発表の書簡
Chantefables. Chantefleurs. La Ménagerie de Tristan. Le parterre d'Hyacinthe. La Géométrie de Daniel (お話歌、お花歌、トリスタン動物園、ヒヤシンスの花壇、ダニエルの幾何学), Éditions Gründ, 2000 - 児童文学作新、ジャン=クロード・シルベルマンによる挿絵
Œuvres de Robert Desnos (ロベール・デスノス作品集), Gallimard, Collection « Quarto », 2003 - マリー=クレール・デュマ監修
邦訳補足
『デスノス詩集』(堀口大學訳、彌生書房、1978年)
「亡霊の日記 」松浦寿輝 訳 - 『シュルレアリスムの箱』巖谷國士編(澁澤龍彦文学館11)筑摩書房 、1991年 - « Journal d’une apparition »(『シュルレアリスム革命』誌 第9-10号掲載)
脚注
^ a b “Plaque en hommage au poète résistant Robert Desnos ” (フランス語). Musée de la résistance en ligne . Fondation de la Résistance (Département AERI). 2020年1月2日 閲覧。
^ a b 谷昌親「アナーキズムからアセファルへ — シュルレアリスムとファントマス 」『シュルレアリスムの射程 ― 言語・無意識・複数性』(鈴木雅雄 編、せりか書房 、1998年)所収。
^ a b c d e f g h “Biographie de Robert Desnos ” (フランス語). robert-desnos . Association des Amis de Robert Desnos. 2020年1月2日 閲覧。
^ a b “Robert Desnos ” (フランス語). www.larousse.fr . Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne. 2020年1月2日 閲覧。
^ a b Jacques Bens. “ROBERT DESNOS ” (フランス語). Encyclopædia Universalis . 2020年1月2日 閲覧。
^ “デスノス ”. コトバンク . 2020年1月2日 閲覧。
^ a b c d “Robert Desnos - Poètes en résistance ” (フランス語). www.reseau-canope.fr . Réseau Canopé. 2020年1月2日 閲覧。
^ “La Tribune des jeunes : revue bi-mensuelle littéraire, politique, artistique, humoristique / (gérant Charles Langronier) ” (フランス語). Gallica . Bibliothèque nationale de France (1918年2月15日). 2020年1月2日 閲覧。
^ Jean-Yves Potel, Marie-Cécile Bouju. “PÉRET Benjamin, dit PERALTA, dit MAURICIO ”. maitron-en-ligne.univ-paris1.fr . Maitron. 2020年1月2日 閲覧。
^ Sanouillet, Michel (2016-06-20) (フランス語). Dada à Paris . Paris: CNRS Éditions. pp. 280–304. ISBN 978-2-271-09127-7 . http://books.openedition.org/editionscnrs/8824
^ “Rrose Sélavy ” (フランス語). robert-desnos . Association des Amis de Robert Desnos. 2020年1月2日 閲覧。
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^ アンドレ・ブルトン著「霊媒の登場」巌谷國士 訳『現代詩手帖 』(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、思潮社 )、および『アンドレ・ブルトン集成6』「失われた足跡」(人文書院 、1974年) 所収。
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参考資料
Marie-Claire Dumas, Robert Desnos, ce coeur qui haïssait la guerre , L'Humanité (5 juin, 2015)
Marie-José Sirach, Desnos, alias Robert le Diable, le veilleur du Pont-au-Change , L'Humanité (5 mars, 2015)
Biographie de Robert Desnos - Association des Amis de Robert Desnos
Robert Desnos - Éditions Larousse (Encyclopédie Larousse en ligne)
Jacques Bens, ROBERT DESNOS - Encyclopædia Universalis
Robert Desnos - Poètes en résistance - Réseau Canopé
谷昌親「アナーキズムからアセファルへ — シュルレアリスムとファントマス 」『シュルレアリスムの射程 ― 言語・無意識・複数性』(鈴木雅雄編、せりか書房、1998年)所収
関連書籍
小高正行『ロベール・デスノス ― ラジオの詩人』水声社 、2015年
篠原一郎『海の星 ― イヴォンヌ・ジョルジュを求めて』港の人、2003年
ユキ・デスノス『ユキの回想 ― エコル・ド・パリへの招待』河盛好蔵 訳、美術公論社、1979年
千葉文夫 『ファントマ幻想 ― 30年代パリのメディアと芸術家たち』青土社 、1998年
清岡卓行 『マロニエの花が言った』新潮社 上・下、1999年 - 長編小説
関連項目
フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
フランス語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。
外部リンク
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