ロブ・ディブル
ロブ・ディブル(英語: Rob Dibble, 本名:ロバート・キース・ディブル(Robert Keith Dibble, 1964年1月24日 - )は、アメリカ合衆国コネチカット州ブリッジポート出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 現役時代は大きなモーションから時速99マイル(約159km/h)の剛速球を投げた救援投手だった。 経歴プロ入りとレッズ時代1983年のMLBドラフト1巡目(全体20位)でシンシナティ・レッズに指名され、契約。メジャー昇格までは5年を要し、1988年6月29日のサンディエゴ・パドレス戦(リバーフロント・スタジアム)の7回表から登板し、メジャーデビューを果たす。結果は2イニングを投げて無失点だった。持ち前の剛速球で中継ぎ投手(セットアップマン)としての地位をすぐに確立し、その年は59回1/3を投げて59奪三振を記録。 1989年7月4日のパドレス戦の8回にMLB史上22人目、ナ・リーグ史上14人目の「1イニング三者連続三球三振」を達成。この年は74試合に登板して10勝5敗2セーブ、防御率2.09。99回を投げて奪三振141は、奪三振率12.82という剛腕ぶりを見せつけた。 1990年にはランディ・マイヤーズ、ノーム・チャールトンと共に「Nasty Boys」と呼ばれる速球派救援投手陣を形成。MLBオールスターゲームに初選出された。最終的に68試合に登板して8勝3敗11セーブ、防御率1.74(自己最高)、98回を投げて奪三振136と活躍。チームの地区優勝に貢献。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズではマイヤーズと共にMVPを受賞し、チームをワールドシリーズに導いた。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズでも第2戦で勝利投手となり、チームの4連勝でのワールドシリーズ優勝に貢献した。オフには日米野球でMLB選抜の一員として訪日した。 1991年には先発に転向したマイヤーズに代わって抑えとなった。2年連続でMLBオールスターゲームに選出された。最終的に31セーブを記録し、82回1/3を投げて124奪三振を記録した。 1992年も25セーブを記録する。 1993年に防御率6.48の乱調で19セーブに終わった。 1994年は腕の故障で全休した。 レッズ退団後1995年はシカゴ・ホワイトソックスと契約するが、それまでほどは三振を奪えず、逆にイニングの倍近い四球を与え、16試合の登板で防御率6.28でシーズン途中に解雇。ミルウォーキー・ブルワーズに移籍するが、ここでも15試合の登板で防御率8.25という散々な成績で、シーズン終了後に解雇。 1996年はフロリダ・マーリンズと契約するが、再び故障し、登板のないまま解雇され、現役を引退した。 投手としての球種はスライダー。『guide to pitchers』(米書 より) 人物レッズ時代には、ボールを外野席に投げ込んで観客の女性を骨折させたり、1991年にヒューストン・アストロズのエリック・イェルディングと乱闘を起こしたり、プレー中にベースで交錯したシカゴ・カブスのダグ・ダセンゾにボールを投げつけたりと問題を起こした。当時の監督ルー・ピネラとも喧嘩となり、ピネラからは「お前は大人扱いされたくないのか!(You don't want to be treated like a man!)」と怒鳴られた。また、試合中ユニフォームの袖が破れて、相手チームからのクレームがついて、投手コーチのユニフォームを借りて投げてセーブを記録したことがある。貸したコーチは「オレが19年ぶりにセーブを挙げた」と、ディブルのピッチングを含めて喜んでいた。 現役引退後、1998年にESPNの解説者となる。解説者になってから、イチローの成功に対しては否定的で、2001年2月20日に、シアトルの新聞紙上で、「もしイチローが首位打者を獲ったら、ニューヨークのタイムズ・スクエアを裸で走ってやる。3割打てたら、それだけでも競泳用水着で同じことをする。」と公言。果たしてイチローは首位打者ばかりかMVPまで受賞し、タイムズ・スクエアを素っ裸でイチローの背番号「51」のタトゥー・シールを貼って走り公約を果たした[1]。レッズ時代の監督、ルー・ピネラ(当時はシアトル・マリナーズ監督)は、この年6月22日に、「そろそろ日焼けの準備をしておいた方が良いぞ」とディブルに語ったという。 詳細情報年度別投手成績
受賞
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク |
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