リゴベール・ソング
リゴベール・ソング・バアナグ(Rigobert Song Bahanag, 1976年7月1日 - )は、カメルーン・ヌカンリコック出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック及び右サイドバック)。現在はカメルーン代表の監督を務めている[2]。 クラブ歴初期FCメスでは1996年のクープ・ドゥ・ラ・リーグ優勝に貢献。1998年には、セリエAに昇格したUSサレルニターナ1919へ移籍する。 リヴァプール1999年1月、2.7百万ポンドの移籍金でプレミアリーグのリヴァプールFCに加入[3]。クラブ初のカメルーン人選手として、アウェーのコヴェントリー・シティFC戦でリーグデビューとなった[4]。1999-00シーズンはアフリカネイションズカップ参加のため3か月間クラブから離脱するなど、ポジションを確立できなかった。2000年夏にはジェラール・ウリエ監督がシドニー・オリンピックへの派遣を拒否するなど、戦力として数えられていた[5]。翌シーズンはマルクス・バッベルやクリスティアン・ツィーゲらの加入もあり[6]、開幕3か月で4試合の途中出場に止まる。2000年9月23日のサンダーランドAFC戦がレッズでの最後の出場となった。同クラブでは公式戦38試合に出場した。 ウェストハム同年11月、ハリー・レドナップ率いるウェストハム・ユナイテッドFCに移籍。先に売却したリオ・ファーディナンドの後釜として、2.5百万ポンドの移籍金で加入した[5]。29日のリーグカップ、ブーリン・グラウンドにシェフィールド・ウェンズデイFCを迎えた一戦で移籍後初出場となった。2001-02シーズンよりグレン・ローダーが新監督に就任すると不遇を託ち、11月に1.FCケルンへ期限付き移籍することとなった[7]。約1年間の在籍で27試合出場無得点。ハマーズでの最終戦は0-5と大敗したエヴァートンFCとのリーグ戦となった[8]。 ケルン、RCランス2011年11月、ブンデスリーガで下位に喘ぐ1.FCケルンにシーズン終了までのローンで加入[9]。加入後はアフリカネイションズカップ2002での離脱を除き全試合で先発したが、クラブは2部降格となった。2002-03シーズンよりRCランスへ移籍し、フランスへ舞い戻る[10]。 トルコ時代2004-05シーズンより、スュペル・リグのガラタサライSKへ1.5百万米ドルの移籍金で加入する[11]。クロアチア代表スティエパン・トマスとセンターバックのコンビを組み強固な守備陣を形成[12]。テュルキエ・クパス優勝や翌シーズンのリーグ制覇に貢献した。2007年2月18日に行われたガズィアンテプスポルとの試合中、エリック・ヘーレツ監督と口論となる[13]。後に謝罪したが[14]、出場機会は減少した[15]。2007-08シーズンよりカール=ハインツ・フェルトカンプが指揮官に就任するとポジションを奪還し、新たにキャプテンに任命される[16]。アフリカネイションズカップ2008から戻ると、自身の負傷に加えエムレ・ギュンギョルやセルヴェト・チェティンらの台頭によりベンチを温めたが、クラブは16度目のリーグ優勝を達成した。 2008-09シーズンより、トラブゾンスポルと2年契約を締結[17]。28試合に出場しカードを一切受けなかったが、2009年4月にエルスン・ヤナルが辞任するとポジションを失う[18]。12月に新監督として招聘されたシェノル・ギュネシュの下ではキャプテンを務め[19]、2009-10シーズンのリーグカップを獲得した。同クラブのサポーターからは「Büyük Şef」(偉大なキャプテン)と称された[18]。 代表歴1993年にメキシコとの親善試合でカメルーン代表デビュー。以後キープレーヤーとして18年に亘ってプレーし、アンリ・ミシェルにより1994年アメリカ大会に招集されて以降、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2010年南アフリカ大会と、4度のワールドカップに出場した。 17歳当時にアメリカW杯で受けた退場処分は大会最年少記録であり、フランスW杯では大会史上初めて2大会連続でレッドカードを提示される。2つのワールドカップで退場となったのは、他にジネディーヌ・ジダンのみである[20]。また、アメリカW杯でキャプテンを務めたロジェ・ミラとの24年42日というチーム内年齢差は、大会における歴代最大記録である[21]。 アフリカネイションズカップでは、キャプテンとして2000年大会から2連覇を達成。計8大会への参加や、5大会でのキャプテン就任、そして35試合連続の出場はいずれも大会歴代最多記録である。 2008年5月31日のカーボベルデ戦で先制点となる代表初ゴールを挙げ、2-0での勝利に貢献した[22]。 2009年にポール・ル・グエンが代表監督に就任すると、サミュエル・エトオにキャプテンの座を譲る。8月12日のオーストリアとの親善試合において、ここ10年間で初めてスタメンを外れた[23]。 2010 FIFAワールドカップでは日本との開幕戦でベンチスタートとなり、チームは本田圭佑のゴールにより0-1で敗れる[24]。試合後、自身をはじめ年長の選手は若手主体でチームを構成するル・グエンにメンバーの再考を求めた[25]。しかし続くデンマーク戦でも起用されず1-2で敗戦し、グループリーグ敗退が決定。オランダとのGL最終戦で、ニコラ・ヌクルとの交代で73分からピッチに立ち、W杯4大会出場を達成した[26]。1-2で敗れ大会を終えると、8月1日に代表引退を表明した[27]。代表でのキャップ数は137を数え、カメルーン代表の最多試合出場選手となっている[28]。 指導歴2015年10月、チャド代表の監督に就任[29]。しかし11月のエジプト戦では不在で[30]、結局国際サッカー連盟に正式承認されることはなかった[31]。 2018年にはカメルーン代表の暫定監督を務める[32]。同年10月18日、U-23カメルーン代表の監督に就任することが発表された[2]。 2022年3月1日、トニ・コンセイソン(英語: Toni Conceição)の後任としてカメルーン代表監督への就任が発表された。[33] 人物既婚であり、2女1男を儲けている[34]。同じくプロサッカー選手のアレクサンドル・ソングは甥。 2016年10月3日、ヤウンデの自宅で脳卒中に倒れ昏睡状態に陥った[35]。翌日には意識を回復すると、フランスの病院に移送される[36]。その後は快方に向かい、12月24日にはレキップのインタビューで経緯を語った[37]。 代表歴出場大会試合数
タイトル
脚注
外部リンク
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