メクレンブルク家メクレンブルク家(Haus Mecklenburg)は、ドイツ北東部、メクレンブルク地方の統治者の家系。スラヴ人の部族国家オボトリート族の首長の家系に起源を持ち、オボトリート家(Obodriten)とも呼ばれる。メクレンブルク家は、ポンメルン公国の統治者家門であるグライフェン家、ポーランド王家から枝分かれしたシレジア・ピャスト家を除けば、神聖ローマ帝国において唯一、スラヴ人の王を先祖に持つ諸侯の家系であり、ポメラニアにおけるその支配は1131年から1918年まで連綿と途切れることなく続いた。一族の男子はメクレンブルク公爵の称号を有し、1815年以後は家長がメクレンブルク大公を称した。1918年に君主が退位したのち、21世紀の現在でもメクレンブルク家は存続している。 歴史12世紀のオボトリート族長ニクロトは、ヴェンド十字軍を機に、1142年にドイツ人による植民に対し蜂起し、ホルシュタイン伯アドルフ2世により建設されたリューベックを破壊した[1]が、ハインリヒ獅子公によるオボトリート族制圧の争いの中、1160年にヴァーレの戦いで戦死した[2]。1167年にニクロトの息子プリビスラフはザクセン公の封臣となり、1170年には帝国諸侯(フュルスト)となった。以後、一族はメクレンブルクの領主としての地位を確立し、1348年には公爵に陞爵した。メクレンブルク家当主の居所は、最初はヴィスマール郊外のメクレンブルク村(Dorf Mecklenburg)にあったが、1256年にはヴィスマールに移された。 メクレンブルク家は長い歴史の中で家領を何度も分割し、複数の分邦に分裂しながら存続した。最初の領土分割は1229年であり、本家筋のメクレンブルクからヴェルレ(Herrschaft Werle)、パルヒム(Herrschaft Parchim-Richenberg)、ロストック(Herrschaft Rostock)の3つの分邦が分かれた。また1352年には、メクレンブルクがメクレンブルク=シュヴェリーン(第1次)とメクレンブルク=シュタルガルト(Mecklenburg-Stargard)に分裂したが、こうした領土の分裂状態は1471年までには一時的に解消された。2度目の領土分裂は1621年で、メクレンブルク=シュヴェリーン(第2次)とメクレンブルク=ギュストロー(Mecklenburg-Güstrow)に分かれた。三十年戦争中の1628年から1631年までは神聖ローマ皇帝軍の将軍アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインがメクレンブルクを占領し、自らメクレンブルク公を称していた。1695年には再統合が実現したが、その6年後の1701年には再びメクレンブルク=シュヴェリーン(第3次)とメクレンブルク=シュトレーリッツに分裂した。 1815年のウィーン会議後、メクレンブルク家の統治者たる公爵はメクレンブルク大公の称号で呼ばれることになり、2つのメクレンブルク公爵領も大公国に昇格した。分邦体制を特徴とするメクレンブルクでは、個々の分邦は限られた自治権しか持たなかった。しかし1848年革命に際し、メクレンブルク=シュヴェリーンでは政治改革が実施され、立憲君主制の近代国家が誕生した。もっとも、1850年までには全ての法律が1848年以前のものに戻され、国家体制も旧に復している。 最後のメクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ6世は君主制廃止の直前の1918年2月24日に自殺し、同年11月14日にはメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世が退位を余儀なくされて、メクレンブルク家は諸侯の地位を失った。メクレンブルクの領土の分裂状態は、2つの大公国が共和制に移行してそれぞれ自由州となって以後も、1934年まで継続した。 系図メクレンブルク公
ヴェルレ領主
引用参考文献
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